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筥崎宮と大分宮について [ 神社仏閣]

昨年9月に福岡の筥崎宮(はこざきぐう)へ行きました。
場所は市営地下鉄やJRの箱崎駅近くです。

筥崎宮の主祭神は応神天皇になっている。応神天皇ってことだから、宇佐八幡を総社とする八幡宮に数えられる。
でもそれは誤り、その理由は次回に書きます。
・・・とアップしてからずいぶんと時間が経ってしまいました。(筥崎宮の放生会大祭@福岡市

そのお約束、理由や筥崎宮のことを少し詳しく書きます。

筥崎宮は921年に託宣があって、923年に大分(だいぶ)宮から遷座したもの。
そして醍醐天皇によって「敵国降伏」の宸筆(しんぴつ)が下賜された。
そうなってます。
でもこれらもどうも腑に落ちないんです。

そこで歴史を勝手に想像しつつ書いてみます。

1.筥崎

まず「筥崎」の名称の由来。

神功皇后が「三韓征伐」(実は架空の神話です)から帰還し、応神天皇を産んだ後、その胎盤(御胎衣=おえな)を筥(はこ:円筒型のはこ)に収めて埋めた。
そこに松を植えた。それが「筥松」で、楼門の脇にちょっと見えるのがその松ってことです。もともと葦津ヶ浦と呼ばれていたところですが、その箱(筥)が納められたことで筥崎と呼ぶようになった、とのこと。

胎盤を筥に入れて埋めた、なんて今からみると不思議な行為です。
でもかつては後産の胎衣は汚物ではなく、命を育み包むものとして大切なものとして扱われ、それを埋める風習が縄文時代からあったようです。
また桶に入れて蓋をして埋めることもされていたようです。(飯島吉晴「胞衣笑いの深層」『比較民俗研究』10.1994年9月。)
円筒の桶に入れて蓋をすると「筥」ですね。
だから胎衣を筥に入れて埋めるというのは、当時としては普通のことで、それ自体は特別なことじゃあないのしょう。

ところで、応神天皇が生まれたところを宇美(現福岡県宇美町)と名付けたと日本書紀にあります。現在そこには宇美神社があります。
その宇美神社の創設は、敏達天皇三年(574年)で、古事記や日本書紀が出来る以前にすでに神社がありました。

日本書紀はその宇美(うみ)の語呂合わせで、応神天皇誕生の地をここにしたのでしょう。

2.筥崎宮の由来

さて、筥崎宮の由来ですけど、平安時代の延喜21年(921年)に託宣があって、延長元年(923年)に大分(だいぶ)宮から遷座したのが筥崎宮の始まりとされています。だから筥崎宮の元宮は、大分宮なんです。
(大分宮からの遷座の理由については、戸原さんのページに解説があります。)

その大分宮は、宇佐神宮の託宣集で「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあって、大分宮は宇佐神宮の「本宮」なんです。
そしてその大分宮から遷座したのが筥崎宮なわけです。だから筥崎宮が宇佐神宮の傘下にある分社ということには本来はならないんです。

要するに筥崎宮はかなりエライんですね。そしてその元宮である「大分宮」ってのはもっとエライ。
その大分宮って何なんでしょう?ってことになりますよね。

3.大分宮

太宰府の北東約14kmのところに大分(だいぶ)という地名があって、ここに大分宮があるそうです。
大分宮は、奈良時代の神亀3年(726年)に創建されたものです。

社伝によれば、この場所は神功皇后が「三韓征伐」の帰途、一時逗留した地であるということになっています。そこで軍を解散させたんで大分(おおわかれ)だって。
でも神功皇后も「三韓征伐」も、そもそも史実じゃないです。

じゃあ全部作り話かっていうと、そうでもないんでしょう。
というか、なんで「大分」なんてのが出てくるのか、なんです。

話を先上らせます。

弥生時代から大和朝廷ができる前、日本には地域国家が並立していました(地域王国説です)。
北九州には連立国家の邪馬台国があって(邪馬台国=九州説ってこと)、その後日本が大和朝廷に統合されていく前に、北九州には筑紫王国があった。
現太宰府にその筑紫王国の首都があって、それに次ぐ「太傅(たいふ)府」があったところが「大分(だいぶ)」だあろう、と考えます。
だから大分(だいぶ)は、もともとは筑紫王国の1つの中心地だったわけです。

日本書紀は近畿に成立した朝廷と九州の筑紫王国(ルーツは邪馬台国)との連続性を示そうとし、神武東征の話をつくります。

神功皇后の「三韓征伐」の神話と関係して大分(だいぶ)のことが出てくる背景には、そういうことがあったのでしょう。

4.八幡神

ところでその大分宮も筥崎宮もともに八幡宮ってことになっている。その八幡宮についてもう少し書きます。

八幡神は応神天皇と同一視されています。そこからしてどうも誤りのようです。

wikipediaによると、八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係だった。
八幡神を応神天皇とする記述は、「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定されるそうです。

じゃあ八幡神って何?ってことになります。
これまたwikipediaによると、八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)ですけど、元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神だったと考えられる、とのこと。

5. 筥崎宮の創設年

さて、筥崎宮の創設は延長元年(923年)だと書きましたけど、その設立年には異説があります。

延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳で、筥崎宮は宇佐(725年)、石清水(860年)と並んで日本三大八幡宮の一つに数えられています。
このことから貝原益軒は「筑前国続風土記」(1703年に黒田藩主に献上、1709年完成)の中で、筥崎宮はもっと以前からあったはずだとして、天平宝字3年(759年)の創建という説が正しい、と指摘しています。(「筑前国続風土記」巻之十八 糟屋郡)
確かにそのとおりと思います。

ではその759年とは。
前年に淳仁(じゅんにん)天皇が即位しましたけど、実際は藤原仲麻呂が権力を握っていました。

前年の758年、渤海に遣わされていた小野田守(おののたもり)が帰国し、唐の情勢を伝えました。
当時、日本は唐・新羅と対抗するため渤海との親交を深めていたんです。報告は、唐で起きた安禄山の乱(755年~763年)のために唐の国力は衰え、新羅に対する影響力も弱まっている、というもの。

そこで翌759年、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせます。
大宰府に行軍式(出兵具体案)を作らせ、淳仁天皇の兄・船親王(ふねしんのう)を香椎廟(香椎宮)に派遣し、祭神に新羅出兵計画を報告させます。香椎宮の祭神は神功皇后ですね。

そして761年、軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられました。しかしこの遠征は関係者の死去や、さらには孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わります。

こうして見ると、新羅派兵を準備した759年に箱崎宮が創設されたというのは、実に符合している。「敵国降伏」なんていうことを掲げた理由も頷けます。

こういう状況証拠からすると、759年説が正しいように思います。

6.醍醐天皇の創設とは

じゃあ逆に、醍醐天皇が923年に遷座したなんていうのはなぜか?

923年ってどんな年なのか。
醍醐天皇によって太宰府に左遷された菅原道真が903年に死去した。その後に起こった一連の不幸は、道真の怨霊の仕業と噂されました。
そこで923年に醍醐天皇は道真を左遷した詔を破棄して、道真を右大臣に復して贈位を行い、その慰霊に努めた。

この時期に遷移する必要がどこにあったのか?
そしていったいなぜ「敵国降伏」のために?

醍醐天皇と朝敵降伏についておかしな話があります。
京都の醍醐寺には、延喜7年(907年)に醍醐天皇の御願で薬師堂が建立され、五大堂も落成しました。
ところがこの五大堂の本尊、不動明王は朝敵平将門降伏のために作ったものだ、という話なのです。平将門の乱(935年)は醍醐天皇の死後のことなので、そんなはずはありません。

あるいは朝敵降伏を祈願して創立後、平の将門の乱に際して調伏修法を行った際、不動明王の瞼頭に血が現れたと、という話もあります。順序は合っているけど、これも違うでしょうね。

醍醐天皇の治世は、摂関を置かずに形式上は親政を行ったため、後世「延喜の治」と崇められた。このことと道真、将門の話が混和されて、いるんじゃないでしょうか。


 
タグ:神社 歴史
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