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合掌村 下呂温泉(その2) [旅行先]

下呂温泉に「合掌村」というのがあるそうなので、立ち寄ってみました。

合掌づくりは本来は白川郷なんかにあるもので、それを下呂に移設したわけ。
単なる客寄せみたいで、ちょっとなぁ、という感じはあるんだけど、白川郷には行ったことないし、せっかくなんで寄ってみました。

「合掌村」駐車場の手前に「いでゆ朝市」というのがあるので、立ち寄り。

農家が野菜なんかを売っている朝市かと思ったら、なんとお土産屋の集まり風。
こういうのが当初からの目的だったのかなぁ?

その朝市の奥に「合掌村」への近道がありました。

坂を上っていくと合掌村入口へ。
いや、入り口からしてしっぱな茅葺きの民家です。

「合掌村」はかなり広いです。全体をパパッとは観れないくらい広そうです。

一番大きな合掌造りの旧大戸屋住宅。
昭和38年(1963年)に白川村から移設したものです。
「合掌村」なんて、バブリーでつくったと思っていたんですけど、どうもそうではないようです。ごめんなさい。

大きな樽が置いてあります。味噌樽かな?

切妻式の屋根です。

住宅の平面図。

建物の中に入る。暗い中に奥に人がいて、びっくり。

でも人形でした。驚かせないでほしいなぁ。

立派な食器箪笥があります。

急な階段があって、二階に上れます。

わっ、また人形がいます。ちょっと怖いです。
2階はカイコを飼っていた場所なので、それが再現されています。

「桑給台」。カイコに桑の葉を与えて、こうして飼育していたんですね。

こっちはもう少し大きく成長したカイコ。なかなか芸が細かい。

カイコが大きくなっからこの網のようなものを置いて、ここで繭を作らせます。
名前はなんて言ったかなぁ?
「まぶし」という名前です。

糸車。繭からとった繊維を糸に紡ぐ器械。

でっかい織機。

むしろ織りです。

脱穀機ですね。
脱穀ってわかりますか?米の籾を稲穂から落とす器械です。
漢字を読めますか?右から読んでいきますよ。(笑)
「組合号 稲麦扱機」です。「全国購買組合連合会」は全農の前身です。
ってことは、これは第二次大戦後のものですね。

これは分かんないだろうなぁ。

「唐箕」という器械。
逆三角形の上から脱穀した籾なんかを入れて、右の丸い部分を回して風を送って、わらくずなどを左の方に吹き飛ばして取り除く装置です。
それ以前は、大きなざるに籾を乗せて、上に放り上げながら、自然の風でゴミを飛ばしていたんだから、それに比べるとこれは画期的な器械です。

萱葺き屋根の裏側。縄で木を止めている。すごい造りです。

階段を下りようとすると、階段の上に綺麗な枝がありました。

花餅です。


雪国では、正月に枝に餅をつけて飾りにしていたもの。
繭玉をつける地方もありました。

1階には当時の生活を再現した場面がいくつかあります。
奥では、さっき見たむしろ織機で女性がむしろを織っています。
手前は「千歯こき」で脱穀しているところ。これは屋外でやる作業ですね。

 

外に出て、入り口と反対側へ行くと、木の看板と大きな石灯籠がありました。

縁側にいたオジサンが、これから囲炉裏に火を入れるからあたっていきなさい、と誘ってくれる。他の建物を見てから火にあたりに行きま~す、と返事。

旧遠山家住宅の板倉。納屋ですね。これは旧大戸家住宅の移築と同時に移築されたものだそうです。

旧岩崎家の住宅主屋。

旧大戸屋住宅に戻って、中に入ると、障子が閉められて、火が入った囲炉裏を囲んで話をしている人たちがいます。
奥にいる人がここの案内人(?)で、手前は観光客のご夫婦。

囲炉裏の上には本物のイワナが煙に炙られています。
でもこれを食べるわけではないようです。

案内人さんが、この合掌造りの家の由来なんかを色々と話してくれます。

この旧大戸家住宅は、天保4(1833)年から弘化3(1846)年まで13年をかけて建造されものだ「棟札」に記録されています。
この住宅があった場所は、現在ある白川郷集落から約10km 南に位置する高台にあったそうです。御母衣ダムの建設で集落が湖底に沈みこの住宅が取り残されることになり、保存管理が困難になったためにここに移築したそうです。2軒の家があったということなので、旧大戸家の住宅と旧遠山家の板倉が移築されたのでしょう。
昭和31年に国の重要文化財に指定されていて、移築は昭和38年7月から翌38年3月までかかっています。
平沢勝栄衆議院議員の生家だそうです。

白川郷では合掌造りの家は、妻側が南北を向いていて、屋根が東西側になっている。そのおかげで屋根の茅が乾燥して50年持つのだそうだ。でもこの家は、移設の説きに妻が東西を向いて立てたために、屋根が湿ってコケが生えるために、そんなに長く保たないのだそうです。
先人の知恵をよく知らずに立て替えを設計したんですね。

案内人さんは、かつて大工だったそうで、私が昨夜泊まったラムネ屋さんの食堂を建てたんだそうです。いやそもそも、ラムネ屋さんの老女将が案内人さんの義妹だそうです。あらまぁ、奇遇ですね。

案内人さんが出したこのヘラみたいな木の棒は、何だかわかりますか?。
紙のなかった時代、トイレの後でどうやってお尻を拭いたか。木の葉っぱとか縄とか、地方によって色々あるようですけど、この飛騨地方では、もみの木を切ったこういう板でお尻を拭いていたそうです。

案内人さんの質問。1階と2階の中間に障子があって、これは出入り口だけども、何のためのものか分かりますか?
雪が積もったときの出入り口・・・じゃあないんです。
実は、夜這い用の出入り口なんです。

江戸時代に、長男だけが家を継いでいましたけど、実は白川郷では分家ができず、長男(それと長男に嫁ぐ女性)以外は結婚ができず、終生大家族の一員として生活する。結婚できないなんてずいぶん可哀想、と思うと、実はこれがそうでもない。
男が女のもとに通う夜這いがあったんです。そしてそこで生まれた子どもは、母親の子どもとして、大家族の中で育てられる。
そういう時代があったんですね。

合掌造りの軒は、こんな感じになっています。

反対側には立派な縁側がついています。この家はかなりの庄屋さんの家だったそうで、こうした立派な造りになっているそうです。

案内人さんは、話が終わった後で、観光客をここに座らせてポーズをとらせた写真を撮ってくれる、というサービスをしてくれます。私はやってもらいましたけど、なかなかいい写真になりました。(アップしませんけどネ)

 

影絵昔話館「しらさぎ座」。日本で唯一の常設の影絵劇場だそうです。時間がないので素通りです。


 
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