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知覧特攻平和会館@鹿児島県南九州市 [旅行先]

今年の夏に鹿児島に行ったときのことです。
鹿児島に行ったら見学したいところがありました。
今は南九州市になった知覧町にある「知覧特攻平和会館」です。
そこに立ち寄ったときの写真をアップします。

太平洋戦争末期に「特攻」(特別攻撃隊)という自爆攻撃作戦があったことは日本人なら誰でも知っていることと思います。
特攻は、レイテ沖海戦から海軍によって実行され、そして沖縄戦では、沖縄海域の米艦船を目標に陸軍・海軍によって頻繁に特攻が行われました。
陸軍の特攻の発進基地が知覧なんです。
そしてその知覧に、特攻の遺品等が展示されている記念館があるのです。

ちなみに、海軍の特攻は神風特別攻撃隊。カミカゼではなく、シンプウです。
そして知覧から発進した陸軍の特攻部隊は「振武隊」と命名されました。

ホントは行く前に勉強すればいいものを、いつものように帰宅後に知覧の本をいくつか読みました。(反省)
読んだのは以下の本です。

特攻基地知覧 (角川文庫)

特攻基地知覧 (角川文庫)

  • 作者: 高木 俊朗
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1973/07
  • メディア: 文庫

 

開聞岳 (集英社文庫)

開聞岳 (集英社文庫)  これは再読

  • 作者: 飯尾 憲士
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1989/07
  • メディア: 文庫

特攻の町・知覧―最前線基地を彩った日本人の生と死 (光人社NF文庫)

特攻の町・知覧―最前線基地を彩った日本人の生と死 (光人社NF文庫)

  • 作者: 佐藤 早苗
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 2007/04
  • メディア: 文庫


文庫 ホタル帰る 特攻隊員と母トメと娘礼子 (草思社文庫)

文庫 ホタル帰る 特攻隊員と母トメと娘礼子 (草思社文庫)

  • 作者: 赤羽礼子 石井宏
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2011/02/05
  • メディア: 文庫

 

 

さて、駅前のふくわうち@鹿児島でうどんとラーメンを急いで食べて、知覧行きのバスに乗りました。

鹿児島中央駅東口のバスセンター東16番。

知覧行きのバスに乗ります。

バスに揺られて約1時間5分。

特攻観音入口で下車。

バス停からすぐのところには、土産物屋やレストランが建ち並んでいます。
その前を抜けると正面に知覧体育館、そこを左に折れると知覧平和公園があります。

真っ先に目に付いた飛行機。
陸軍の一式戦闘機「隼」です。
本物?じゃないです。

「特攻の母」として知られた鳥濱トメさんを題材にした映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(2007年)で撮影に使われたもの。
一式「隼」Ⅲ型甲をモデルに復元されたものです。
この知覧から、この隼が120機飛び立ったそうです・・・そして亡くなった。

ところで「一式」というのは「皇紀」に因んでいます。
当時の政府は、神武天皇が即位した年を紀元とする皇紀を使っていました。
(もちろん神武天皇は神話上の人物で、実在などしていません。)
1940年(昭和15年)が皇紀2600年で、その年大記念行事が行われました。
その年に正式採用された大日本帝国海軍の戦闘機が「零式艦上戦闘機」、「ゼロ戦」と通称される戦闘機です。
そして1941年(昭和16年、皇紀2601年)に採用された陸軍の戦闘機が「一式」で、「隼」は国民向けに陸軍がつけた愛称です。

知覧護国神社境内にある像。

特攻像「とこしえ」です。

昭和49年に建造されたものです。
碑文
 「特攻機は、ついに帰ってきませんでした。
 国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら、
 勇士は征ったにちがいありません。
 特攻像「とこしえに」は全国の心ある人々によって建てられました。
  み霊のとこしえに安らかならんことを祈りつゝ
  りりしい姿お永久に伝えたい心をこめて。
  あゝ開聞の南に消えた勇士よ」

飛行機がもう1台ありました。

練習機の「T-3」です。
初等練習機として航空自衛隊防府北基地(山口県)で活躍していたが、平成17年に用途廃止されて、知覧町が借り受けたものです。
国が「寄贈」するっていうのは、難しいんで「貸す」ってことにしているのでしょう。事実上は寄贈したんですね。
でも特攻との関係はないと思います。

「特攻隊の歌」の碑。
どういう経過で作られた歌なのか、不明。

「大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊」の看板がついた門柱。

太平洋戦争中の昭和16年(1941年)12月に、大刀洗陸軍飛行学校の知覧分教場がここに開設された。その門柱です。(大刀洗飛行場は現福岡県大刀洗町と筑前町。)
そこでは、少年飛行兵や特別操縦見習士官が訓練をしていました。

太平洋戦争を起こしたのは1941年12月8日。
その月の24日にこの知覧分教場が開校しました。

「第40教育飛行隊西部123部隊」の門柱。

学徒出身の特別操縦見習士官が操縦教育うけた第40教育飛行隊の門柱です。
昭和19年7月から末年まで、第2期生136人が操縦訓練を受けた。

その後、部隊も見習士官も移動した、と書いてますけど、それは昭和20年にここが陸軍特攻基地になったからです。
ここで教育を受けた第2期生、教官47名は、半年後にはここから振武隊(特攻隊)として沖縄へ出撃して行った。
敗戦のほんの少し前のこと、悲しいことです。

ところで、1941年にここに飛行場が開設されたというのを読んだとき、その飛行場が出来る前、そこは何だったのか、私は想像すらしませんでした。
ここは何だったか?
農地でした。約600戸の農家が所有する農地でした。
茶、麦、甘藷の畑を廉価で買収して、飛行場が建設されました。
戦時中のこと、有無を言わせぬ買収だったでしょう。

「知覧特攻基地を偲ぶ一コマ」として写真がいくつかあります。
平和会館の中にも展示してある写真です。

そして、知覧平和公園の奥にある知覧平和会館。
館内は撮影禁止だということなので、写真は撮りませんでした。
プライバシーの問題から撮影禁止なのでしょうか?残念です。

知覧平和会館内では、特攻の資料をたくさん拝見しました。
館内の解説は、戦争を賛美しているわけではないけれど、特攻で亡くなった方々の死を顕彰しています。
しかし亡くなった方々の気持ちや特攻隊の実像をつかみきれない。
私は不勉強を改めて感じました。

バスに乗って鹿児島市へ帰る途中、「富屋食堂」があったので慌てて写真を撮りました。
帝国陸軍の指定食堂だった「富屋食堂」には、後に多くの特攻隊員が訪れるようになり、女将の鳥濱トメさんは特攻の母と呼ばれるようになったそうです。
トミさんは、戦後の昭和27年、知覧を訪れる遺族を泊めるために旅館を設立しました。
その脇に、かつてあった場所に富屋食堂が再現されました。
その前をバスが通ったので、慌ててシャッターを切りました。


 
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