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浦上地区で原爆と平和を学ぶ@長崎市 [旅行先]

家族で長崎に旅行したときのことです。

おばあちゃんのアイスをいただいて、一息入れたところで、また真面目な話題です。
とんちゃんもたまには真面目なことを書いたりします。

原爆資料館前の階段を降りていきます。
桜が咲いて、綺麗な公園です。

階段を下る途中に「平和の母子像」があります。
幅3m、高さ2mの青銅のレリーフです。
瀕死のわが子を抱く母、崩壊する地球を全身で支える母、子らを胸に戦火を見据える母、愛と祈りの母が彫られているんだそうです。

1987年8月1日に長崎平和の母子像を建てる会が建立したもの。
沖縄県読谷村の彫刻家、金城実さんが制作したものですって。

さらに下ったところに「平和を祈る子」の像があります。
1967年に長崎平和の折り鶴会が建立したもの。
国内外の子どもの募金によって建てられたものだそうで、台座には国内外の地名が刻まれた石が埋め込まれています。

台座の碑文
「原始雲の下で 母さんにすがって泣いた
ナガサキの子供の悲しみを
二度とくり返さないように
大砲の音が 二度となりひびかないように
世界の子供の上に
いつも明るい太陽が輝いていますように」

ん?写真を眺めていて、台座に「CCCP」って書いてあるのを発見。
ぉおお!懐かしい!
英語じゃないですよ、これはロシア語。
「エス・エス・エス・エル」って読みます。
ソビエト社会主義共和国連邦、ソ連の略称です。

自然石に「不戦平和之塔」と刻まれた碑です。
「建設労働者職人、原爆殉難者慰霊」と書いてあります。

建設労働組合が建てた慰霊塔だそうです。
当時、建設労働者・職人が徴用されて、街の強制疎開の建物撤去作業や魚雷艇づくりに強制就労させられていて、原爆の被害にあったそうです。

「街の強制疎開」とは、「建物疎開」とも言われるもので、市街の延焼を防ぐために、建物のない防火帯を強制的につくったこと。要するに、すでに建っている家々を強制的に撤去していったんです。
撤去した建物をどこかに建て替えてくれる、なんてことはありません。
家を奪われた人は、強制的に街を出て、疎開するしかありません。

その作業に当たっていたのが、徴用されて働かされていた人たちだったんですね。
そして原爆の被害に遭った。
そういう歴史もあったんですね。

こちらは、変形したU字の碑です。

「電気通信労働者 原爆慰霊碑」です。

ブロンズの碑は、平和之炎を模造したものだそうです。

階段を降りて、公園の中へ入りました。

「原子爆弾落下中心地」に建てられている塔です。
左のおおきなボックスには、原爆殉難者名が納められています。
いまも原爆殉難者が増えている、ということは忘れてはいけません。

鐘が吊された原爆殉難者の碑。
長崎県動員学徒犠牲者の会と長崎県原爆被爆者手帳友の会が建立したもののようです。

平和祈念像。
被爆10周年にあたる1955年8月8日に完成したもの。

垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、
水平に伸ばした左手は平和を、
横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、
立てた足は原爆の恐怖を表し、
軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っています。


しばらく歩いて「如己堂」に来ました。

ほんの小さな小屋です。

長崎医科大学物理的療法科部長として被爆者への救護活動を続け、原爆に関する医学的な研究と多くの著作を残した永井隆博士が過ごされた畳2枚の小さな住居です。

永井氏は、1945年6月の時点で、長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受けていました。

そして8月、爆心地から700mの距離にある長崎医大の診察室で被爆し、右側頭動脈切断という重傷を負います。
重傷を負って、白血病と闘いながら、永井氏は救護班を組織して、被爆者への救護活動を行いました。

「如己堂」の後には永井隆記念館があります。
じっくり見学したいのですけど、そこには寄らずに先を急ぎました。


 
タグ:長崎県
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