謝国明の力と山笠が奉納される理由 承天寺@福岡 [ 神社仏閣]
今回も博多の観光ネタ、というかお寺めぐりです。
食べものネタ期待の方は、しばらくお休み下さい。(笑)
博多にある承天寺(じょうてんじ)、ここは臨済宗のお寺です。
「博多駅前1丁目」という住所です。
手前が山門。その向こうに、もう1つ門があります。
ほぉ・・菊の紋がついた門です。
天皇家と関係があるってことですね。
観光協会の案内板があります。
こんな説明が書いてあります。
1242年、博多祇園山笠の創始者とされる聖一国師によって開山されたそうです。
(へぇ・・そうなんだぁ!)
建立には貿易商の謝国明が助け、太宰少弐・藤原(武藤)資頼が資材を施すなど金銭的に援助した。
(ふーん、藤原資頼が金銭的に援助して、謝国明は何を助けたの?なんだか変な説明ですね。)
境内には、博多織の始祖満田弥左衛門の碑や聖一国が伝えたとされる饂飩・蕎麦や饅頭発祥の記念碑、墓所には新派劇の創始者川上音二郎の墓があるそうです。
(あらこれは面白そうです。)
いろいろと興味深いことが書いてあります。
こっちはお寺が立てた由緒書きによると・・。
臨済宗東福寺派のお寺で、山号は萬松山です。
太宰少弐・武藤資頼が寺地として数万坪を寄進して、冷泉津綱首謝国明が七堂伽藍を建立して、聖一国師円爾弁円(えんに・べんねん)を請じたそうです。
あら、太宰少弐・武藤資頼は土地を寄進して、貿易商の謝国明がお金を出した。
あぁ、これならわかります。
そして1243年に宣旨によって太宰府の崇福寺とともに累代不易の「勅願所官寺」になり、さらに1380年に勅命によって五山十刹の寺格になったそうです。
天皇の祈願寺が「勅願寺」だそうで、だから菊の紋なんですね。
なぜそうなったのか、は最後に書きます。
武藤資頼と円爾弁円と宋商人の謝国明。そして謝国明はキーマンですね。
なんだか面白そうです。
この3人の重要人物のこと、そして山笠との関係については最後に詳しく書きます。
案内板の地図を見ると「謝国明の墓」があります。
おっと、こりゃ後で行ってみないといかんなぁ。
まずは山門をくぐります。
まだ中に入ってなかったんです。
立派な鐘楼があります。
鎌倉時代の1242年に創建された仏殿「覚皇殿」。
こういう落ち着いた感じの建物が好きだなぁ。
手前に「百度石」がありました。
これを目印に、お百度を踏むんですね。
碑がありました。
左が「饂飩・蕎麦発祥之地の碑」、中央が「饅頭所の碑」、右が博多織りの技術を中国の宋から持ち帰ったという「満田与三右衛門の碑」です。
饅頭については、聖一国師が茶店の主に饅頭の製法を教えて「饅頭所」の看板を与えたんだそうで、その看板は東京の「虎屋」にあるそうです。
どんなのなんでしょうね。
方丈(ほうじょう)前に広がる石庭「洗濤庭(せんとうてい)」。
ここから先は、檀家しか入ってはいけないことになっています。
大丈夫です、今日のとんちゃんは臨済宗の檀家(の心)ですから。
きちんと整えられた美しい石庭です。
しばらく眺めていたい感じです。
墓地に行って、「オッペケペー節」の川上音二郎の墓を探したんですけど、どこだかわかんなかった。見つからないわけがないのに・・・。
境内にはこんな庫裏もありました。
さて、武藤資頼と円爾弁円と宋商人の謝国明について、少し詳しく説明します。
謝国明がキーマンだったようなのです。
◆まず日宋貿易について
日宋貿易は平安時代に平清盛が博多に港を築いて盛んになりました。
鎌倉時代は、正式な国交はなかったが南宋との間に私貿易が行われていた。
平安時代末期から筥崎宮周辺に宋国人街が形成され、宋人は博多に居を構えて寺社と結び付いた。
九州の中心地は太宰府だったけど、この日宋貿易のせいで博多に中心が移ります。
そして鎌倉時代の私貿易の拠点は、寺だったんです。
「承天寺」を開山した円爾弁円は、のち上洛して「東福寺」を開山したため、東福寺は本寺、承天寺は末寺となりました。
そして承天寺は本寺の東福寺の出先機関として貿易実務の代行もしていたのです。
朝鮮半島西南部にある道徳島沖で発見された新安沈没船から「東福寺」、承天寺の塔頭(たっちゅう)である「鈞寂庵」などと書かれた木簡が発見されました。
荷主にこれらの寺社が含まれることが明らかになったのです。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~5jimu/reports/010630-j.html
さて、この日宋貿易を軸に武藤資頼と円爾弁円と謝国明が結ばれます。
◆謝国明
南宋の商人で、日本人を妻として日本に帰化しました。
まず寺の由緒書きにあった「冷泉津綱首」について。
「冷泉津」とは博多湾のこと。
宋商人は船団を組んで貿易していて、それが「綱」(ごう)。
その長が「綱首」(ごうしゅ)で、在日中国人商人の貿易船団の長ってことです。
かなりの実力者だったってことですね。
しかし、それだけではないようです。
「近年の研究によれば、「綱」の原義は政府の委派を受けて官物運送を管領する人であり(『唐律疏議』)、波及して封建政権の財政、軍需、貿易と密接に関係した商業活動もすべて「綱」と称されるようになった。あるいは謝国明も何らかの形で宋朝政府とも関係を有していたのかもしれない。」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~5jimu/reports/010630-j.html
「イスラームの歴史と文化」(東京大学東洋文化研究所)
大商人だっただけでなく、宋朝政府とも関係を有していたらしい、相当の人物だったようです。
◆武藤資頼
武藤資頼のことは、「歴史の勉強・少弐氏」に詳しい説明がありました。
http://roadsite.road.jp/history/muromachibuke/syoni/syoni01.html
それを参考にしつつ紹介します。
武藤資頼は、元は平家の武将だったけど、一ノ谷の戦いの時に源氏方に捕らわれて、三浦義澄に預けられた。
ところが故実に明るかったために、文久5年(1189年)源頼朝によって罪を赦されて、なんと御家人に取り立てられたそうです。(すごっ!)
鎌倉幕府時代、建久7年(1196)に太宰府の少弐に任じられ、以後代々武藤氏が少弐職を世襲して、少弐姓を名乗るようになりました。
また建久年間(1990~1998年)に設置された九州各国の守護のうち筑前の守護にもなったそうです。
「太宰府少弐」について。
太宰府の役人は、トップが帥(そち)、次いで権帥(ごんのそち)、その下に大弐(だいに)、少弐(しょうに)等がいました。
これからみると、「少弐」ってかなり下です。
ところが、帥は親王が就いていて京都にいます。
だから現地での実際の長官は権帥でした(「権」は「仮」の意味)。
そしてその権帥と大弐は実質的に職務に差がなく、どちらかしかいない。
しかもやがて、ともに赴任しなくなり、保安年間(1120~24)後には完全に赴任しなくなった。
ということは、現地にいるトップは「少弐」ってこと。
だから少弐は事実上の長官だったんです。
寺のための土地を寄進するなんて、簡単なことだったでしょう。
この少弐が日宋貿易を監督する。
そのために宋商人との関係ができていったんですね。
当然、重要人物、謝国明との関係も強い。
◆聖一国師
wikipediaなどによると・・
幼時より久能山久能寺の堯弁に師事して倶舎論・天台を学んだ。(天台宗です!)
18歳で得度し、上野長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学ぶ。(天台宗から臨済宗に宗旨替え)
嘉禎元年(1235年)、宋に渡航して南宋禅界の大仏者・無準師範(ぶしゅんしばん、1178年 - 1249年)の法を嗣いだ。
帰国後、博多に「承天寺」を開山、のち上洛して「東福寺」を開山する。
そのため東福寺は本寺、承天寺は末寺となります。
天台宗から臨済宗に変わって、宋へ行ったんです。
そして「承天寺」と「東福寺」を開山しました。
南宋に渡ったのは1235年、そして1241年に帰国。
その翌年に、承天寺を開いています。
ここで謝国明との関係が重要です。
「聖一国師Episode」
http://members3.jcom.home.ne.jp/romantic-hakata/rekishi-kokushi.htm
によると、聖一国師と謝国明との関係が語られています。
謝国明は櫛田神社の横に大きな屋敷を持っていて、聖一国師は中国に渡る前、二年間そこにいて、謝国明から中国語習って入宋の準備をした。
聖一国師は謝国明の船で入宋し、帰国したのでしょう。
謝国明はまた、円爾の師である無準師範とも直接面識を有していたらしい。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~5jimu/reports/010630-j.html
「イスラームの歴史と文化」(東京大学東洋文化研究所)
こうして円爾は謝国明を介して宋へ渡り、無準師範に師事したのです。
そして帰国後に、謝国明が彼を招いて承天寺を開いた。
そのために武藤資頼に働きかけて、土地を寄進させたのでしょう。
まさにキーマンは謝国明です。
◆「勅願所官寺」の指定について
「聖一国師Episode」に面白い話しがもう1つ書かれてありました。
「承天寺を建てたころ、教義の相違からか、天台宗でスタートした円爾が禅宗の高僧になっていることへの反発からか、天台宗である大宰府の有智山(うちざん)の衆徒が円爾を襲撃して殺そうと、険悪なことになりました。
そのとき、謝国明は円爾を櫛田の自宅にかくまって、身の安全を守っています。僧兵を抱える有智山に対抗できるのですから、謝国明のパワーを感じさせられます。幸いなことに、朝廷は有智山衆徒の要望を退(しりぞ)け、かえって承天寺と崇福寺を官寺に指定するのです。官寺になれば誰も手が出せない。朝廷の聖一国師(円爾)への信頼と期待が汲み取れます。」
「聖一国師への信頼」とありますけど、この時点ではまだ信頼するべき実績なんてないはず。
『福岡の歴史』にも「太宰府の有智山(うちざん)の天台教徒は、このようなことをねたみ、事を構えて国師を朝廷に訴え、承天寺を破壊しようと企んだが、朝廷は、かえって承天寺を庇護して事なきをえさせた。」とあります。
その背後には、謝国明と太宰府少弐の武藤資頼がいた、と考えるべきでしょうね。
◆聖一国師と祇園山笠との関係について
山笠は、櫛田神社(正確には祇園神社)を出発して、東長寺に奉納したあとで、ここ承天寺にも奉納されるんです。
それはなぜなのか?
観光協会の案内板には、聖一国師が山笠を創始者だと書いてありました。
博多祇園山笠公式サイトにも説明があります。
http://www.hakatayamakasa.com/index.php
「博多祇園山笠の起源には諸説がある。櫛田神社の社伝によると、祭神の一つ祇園大神(素盞嗚命)を勧請したのが天慶四(941)年。すでに都(京都)では現在の祇園祭につながる御霊会が行われており、勧請間もなく始まったという説。また、文献的初見である「九州軍記」に基づいて永享四(1432)年起源説もある。
諸説がある中で、博多祇園山笠振興会は一般に広く知られている聖一国師が仁治二(1241)年、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたのが始まりという説を取っている。当時は神仏混淆の時代。これが災厄除去の祇園信仰と結びついて山笠神事として発展したというのだ。この1241年を起源として、2011年の本年は丁度770回目の記念すべき開催となる。」
祇園会(ぎおんえ)とは、「祇園御霊会」の略で祇園祭のことです。
しかし1241年って、聖一国師が帰国した年です。
その翌年の1242年になってこの承天寺が開山されているんです。
そんな時期の行事が起源とは、どうも考えられない。
しかももしホントにそうだとしたら、山笠は櫛田神社(正確には祇園神社)の祭りじゃなくって、創建されたばかりの承天寺の祭りになるんじゃないでしょうか?
「山笠の歴史」というページには起源について、4つの説が紹介されています。
http://homepage1.nifty.com/west1/yamakasa/history.html
『福岡の歴史』では、祇園山笠の起源について、『筑前国続風土記』の「後花園院永享4年6月15日に始まれり。」を引用しています。永享4年は1432年です。
そして「山笠の起源については、鎌倉時代の聖一国師に始まるという博多独自の節があるが、その行事の大体(追山発生前)は、このようであったろう。」(p.84)として、永享四(1432)年起源説を採用しています。
また聖一国師との関係については、「国師は祈祷をこめた聖水を奉じて、町民の舁(か)き動かす施餓鬼棚に乗り、博多津中にこの聖水を撒いて、疫病の流行を封じたといわれている。」とした上で、「当時、新帰朝の国師が民心の帰依を促す一方法として、このような新風の祇園会の行事を津民に与えたものと思われる。」(p.43)としています。
聖一国師が創始者じゃないとして、じゃぁなぜ山笠が奉納されるのか?
話しは振り出しに戻ってしまいます。
理由はきっと「勅願所官寺」だったからでしょう。
並のお寺じゃないです、天皇の祈願寺ですよ。
だから奉納したんでしょう。
コメント 0