幕府が建てた貿易拠点から2つのういろう誕生 妙楽寺@福岡市 [ 神社仏閣]
食べものネタ期待の方は、もう少しお待ち下さい。(笑)
博多でお寺めぐりをしました。
最後は「妙楽寺」さん。
臨済宗大徳寺派のお寺です。
お寺の前には、例によって観光協会の案内板があります。
鎌倉時代末の1316年の開基。
沖の浜に創建されたけれど、その寺が1586年に消失して、1600年に黒田長政がここに移転したそうです。
沖の浜は、現在の蔵本町付近で、息の浜、息浜とも呼ばれていたらしい。
この妙楽寺は月堂宗規(げつどうそうき)和尚が創建したもの。
山号は「石城山」。
案内板の説明では、「創建当時、海浜の石累上に堂々営構された当寺が海上から見るとまるで石城のように見えたことにちなむ」とあります。
そして「遣明使一行が宿泊するなど重要な外交使節のひとつでした。」ともあります。
ここでふーん、って思っただけではいけない。
いや、どうしてどうして。実はこのお寺、なかなかすごいんですよ。
何がって?
このお寺の建立については最後に書きます。
さて、山門から長い参道が続いています。
境内図を見ると色々な堂があります。
でも門が閉まっていて拝見できません。
門越しに本堂の写真を撮りました。
これは「開山堂」のはず。
「ういろう伝来之地」という碑があります。
ういろうといえば・・・名古屋ですよね?
いや、実は「ういろう」といっても、菓子の外郎(ういろう)ではなく、「透頂香(とうちんこう)」という薬のことなんです。
こういうことです。
◆「ういろう」について
中国が元の時代に「礼部員外郎」という名の官職があったんです。
1368年に元が滅亡して明ができた。
そのとき、礼部員外郎だった儒医・陳延祐が日本に亡命してきて、ここ妙楽寺に明照庵という庵を開いて、姓を陳外郎としたそうです。
一緒に亡命した子、陳外郎宗奇は京都に移り、明に戻って医術を学び、霊宝丹という薬の処方を持ち帰った。
その薬が「外郎(ういろう)」と呼ばれたんです。
でもその薬は苦かったので、口直しに米粉で作った菓子を添えた。
それが「ういろう」と呼ばれるようになった、ってことです。
・・・でもそれって、ちょっと変ですよ。
薬とお菓子を一緒に売りますかね?
やはり、こんな説明がありました。
外郎家二代目の大年宗奇が朝廷で外国信徒の接待役を勤めていた折に、接待用に自ら菓子を作った。
この菓子が評判になり、これもまた「ういろう」と呼ばれるようになった。
菓子のういろうは、江戸の頃には外郎家で客の接待などに供されてきたが、明治に入ってから一般にも販売するようになった。
「薬か菓子か…本家本元、小田原ういろう」
http://www.trad-sweets.com/wagashikaido_4/pg22.html
これが真実かな。
ともあれ、外郎家が2つの「ういろう」の起源であることは確かみたいです。
墓地もちょっと覗いてみました。
これまた長い道の脇にお墓があります。
この奥に広い墓地があるんですけど、ここで引き返しました。
さて、このお寺の建立について。
案内板によると、妙楽寺の山号「石城山」は、「創建当時、海浜の石累上に堂々営構された当寺が海上から見るとまるで石城のように見えたことにちなむ」でした。
◇まず「石累」ってナニ?
1274年に、元が襲来した文永の役(元寇)がありました。
そのために博多の町は焼失しました。
それで元の再来を警戒して、博多湾沿岸には「元寇防塁」が築かれたんです。
「石累」とは、そのことです。
そこに寺が建てられて、その見た目が石城みたいなんで、石城山と命名した。
ほぉ・・なるほどね。
って納得すれば、いいんですが・・・。
◇しかし「石城のように見えた」って、ほんとですかね?
だって寺の名前って、建ててから眺めて考えるものですか?
建てる前に決めると思いますよ。
それだけじゃないんです。
妙楽寺は湾岸にあったため遣明使一行が宿泊するなど中国との対外交渉の大事な拠点であり、当時は「妙楽寺貿易」という言葉が残るほど、中国との貿易が盛んに行われていた。なんて説明があったりするんです。
承天寺のところで書いたように、お寺は貿易の基地だったんですが、それは寺を拠点に貿易を行った商人がいてのこと。そしてその背後には、それを許した役人がいてのこと。
◇このお寺はいったい、どんなお寺だったんでしょう?
◇そしてこの寺を建てる資材を提供したのは誰なんでしょう。
とっても疑問に思って、ネットで調べてみました。
実はこうなんです。
◆「石城」という名のこと。
「元寇防塁」があったのは確かですが、実はなんと、博多自体が「石城」と呼ばれていたんです。
博多の異称が「石城」なわけです。
ってことは、博多の名前を冠したお寺なわけです。
要するに「石城寺」っていうのは、「博多寺」ってことです。
これはいったいどういうことでしょう。
お寺の背後には、単なる商人じゃなくって、博多を治めた幕府自体がかかわっていたんじゃないでしょうか。
◆堂塔伽藍の建設は1346年
こんな記述がありました。
・「正和五年(1316年)に博多の人々が息浜に庵を構えて月堂宗規禅師を招いたのが始まり。貞和二年(1346年)に堂塔伽藍が建設されました。」
『博多情緒めぐり』P.3。
http://hakata-meguri.city.fukuoka.lg.jp/download/
・1346年に妙楽寺が「幕府官寺」になったという記述もあります。
こういうことです。
1316年に月堂宗規禅師が開基したのは「庵」、仏を安置する小屋です。
しかし1346年になって、堂塔伽藍が建設され、幕府官寺になっている。
ぉおっと、かなり真実に近づいた感じです。
1346年がキーポイントですね。
ここで誰が何をしたんでしょうか?
◆当時の状況を整理してみます。
創建当時の中国は元の時代、元からは国交のための使者が来ますが、朝廷と鎌倉幕府は無視、そして2度の元寇(1274年、1281年)になります。
こうして元との国交はなかったけれど、しかし私貿易や留学僧の渡来は平安時代と同様に続いていましたし、「寺社造営料唐船」まで派遣されていました。
この貿易船は、寺社の造営費用のためということになっていますけれど、実は博多などの商人が主体になって貿易が行われていたようです。
1338年足利尊氏が室町幕府を開き、中国では1368年に明が成立します。
庵が出来た1316年は鎌倉時代、そして堂塔伽藍が建設され、幕府官寺になった1346年は室町時代です。
◇室町時代に入って、何があったんでしょうか?
重要な指摘が見つかりました。
・「南北朝期博多の対外関係で注目されるのは、対外貿易に息浜(おきのはま)が利用されていることである。
息浜は、もともと大友氏泰〔?~1362〕が建武政権から勲功の賞として与えられていた。が、貞和二年(1346)八月、室町幕府は鎮西管領(九州探題)一色氏の要請に応じて、息浜を含む博多を管領在所に指定し、それまで息浜を領有していた大友氏泰には替所を約束している。
こうして鎮西管領一色氏は博多代官を置いて息浜を管理し、外国船の入港を幕府に注進するなどしている。のちの九州探題今川了俊〔1326~?〕の対外交渉は一色氏のこの権益を背景としているのであろう。
そして息浜の妙楽寺が対外交渉の政治的機能を担うようになる。」
川添昭二「海にひらかれた都市 古代・中世の博多」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kawazoe-shoji-hakata.htm
◆幕府が建てた幕府官寺
1346年、鎮西管領(九州探題)一色氏の要請に応じて、室町幕府は息浜(沖の浜)を含む博多を管領在所に指定した。
一色氏は博多代官を置いて息浜と外国船の入港を管理し、貿易の権益を得た。
そして妙楽寺が対外交渉の政治的機能を担うようになった。
1346年、鎮西管領(九州探題)一色氏は沖の浜に妙楽寺の堂塔伽藍を建設し、幕府官寺としたんです。
妙楽寺の檀越(施主)は一色氏でしょう。
そしてそれに協力した商人がいたんでしょう。
幕府が造った寺だから、きっと博多の異称を冠した「石城寺」になったんです。
そして一色氏は、そこを拠点に、対外交渉、貿易を行った。
そういうお寺だったんですね。
小田原に行ったらぜひ外郎を買ってこようと思います。
by けったま (2012-06-29 15:28)
> けったまさん
小田原にも外郎があるんですね。
ういろうは好き嫌いがかなりありますね。
けったまさんはお好きですか?
わたしも意外に好きなんです。
by とんちゃん (2012-06-29 20:51)