三宅島の神社:雄山の神・富賀神社 [ 神社仏閣]
今回と次回は神社編です。
三宅島の神社にちょっとだけ寄りました。
富賀神社。
噴火で被災したけど再建されました。
突然ですが、静岡県三島市にある三島大社をご存じでしょうか?
実はこの富賀神社は、なんとその三島大社の本宮だとされているんです。
うっそー!と思うほどの偉い神社なんですって。
そんな富賀神社と三島大社のことを紹介します。
真新しい鳥居をくぐると、これまた真新しい灯籠があります。
なかなか風格のある狛犬です。
この狛犬の表情、好きだな。
あれ?誰かに似てる?
さて、真新しい拝殿です。
富賀神社の扁額。
三宅村の案内板によると。
祭神は、三島大明神=事代主命(ことしろぬしのみこと)、その后の伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)、王子の阿米津和気命(あめつわきのみこと)だ、とあります。
また、伊豆七島の総鎮守で、静岡県三島神社の発祥地だとも書いてあります。
んーむ、実は祭神はちょっと違うんですよね。
まぁそこら辺のことは、最後に書きましょう。
この拝殿の後には、4つの境内社があります。
壬生宮。
若宮。
見目宮。
剣宮。
これら4つの境内社の神様はなにかっていうと・・。
『三宅記』によると、三島大明神が伊豆の島々を作るときに、丹波の翁と嫗が自分の男の子2人(若宮、剣)と女の子(見目)を共につけたそうです。
それらが若宮宮、剣宮、見目宮ですね。
そして壬生は、実はこの神社の宮司なんです。
宮司の先祖が神として祀られているわけです。
壬生氏のこともまた後ほど。
以下はこの神社についての薀蓄。興味のある方のみ、どうぞ。(笑)
さて、富賀神社のことについて、いったいどんな神社なのかを整理してみます。
祭神は、事代主命(三島大明神)、伊古奈比咩、阿米津和気命となっていました。
それらがいったいどんな神様なのか、その背負う歴史は何なのか。
ググってみました。
以下、1.三島大明神、2.阿米津和気命、3.伊古奈比咩の順に整理しましょう。
1.三島大明神
◆富賀神社と三島大社との関係
富賀神社は静岡県三島神社の発祥地ということになってましたね。
宮司の壬生家に伝わる「三島大明神縁起」(通称「三宅記」)に三島明神のことが書かれているそうです。
そこには、白浜に来た三島明神は伊古奈比咩と夫婦になって白浜に滞在し、7日7夜の間に伊豆に十の島を創って、そこに三島明神の8人の后神と27人の御子神を配置し、しばらく三宅島に住んで後、島々に后神や子神を残して、白浜に帰った、ということになっています。
三島明神が「白浜に来た」っていうけど、どこから来たのか?
そのことは後にして、まずは三宅島に来て以後のこと。
富賀神社宮司の壬生明彦の解説によると、富賀神社から三島神社への経路は、次のようになっています。
「伊豆諸島の総鎮守、静岡県の三島大社の総社と言われている。三島大社は本来この地に鎮座し、そのあと、三宅島富賀神社→白浜海岸白浜神社→大仁町広瀬神社→三島市三島大社と遷したという。」
(http://www.miyakejima.com/toga/history.htm)
・「伊豆の三島神社について」に、その根拠が紹介されています。
(http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo28.htm)
というわけで、富賀神社が三島神社の発祥地だというのです。
◆三島明神について
その三島明神は何者なのでしょうか?
先の「三宅記」には三島明神がいったい何者かは、書かれていないのです。
現在、三島大社は、大山祇命(おおやまつみのみこと)と事代主神(ことしろぬしのかみ)の2神を祭神としています。
富賀神社は事代主だけとしていたのに、変ですね?
結論を先に書きましょう。
実は、元々の祭神は大山祇命だったんです。
しかし平田篤胤が事代主説と唱えたんです。
1871年(明治4年)に三島大社が官幣大社となったことを契機に、平田篤胤を信奉する三島大社の宮司・萩原正平が明治政府の教部省へ祭神を変更する伺いを提出して、結局は祭神が「積羽八重事代主命」(葛城賀茂神系)に変更になったんです。
そんなことがあって、現在は両論併記になっているんです。
だから何だって?
いやいや、この2人、じゃない2神の関係が面白いんです。
両方の神についてもう少し・・・
◇大山祇命
『伊予風土記』によると、大山祇命は和多志(わたし・渡神)の神で、百済からやってきて、摂津の御島(三島)に来た神、だとしています。
三島明神=大山祇命を信仰する集団が、百済から渡って摂津の三島、瀬戸内海の三島へ、そして三宅島や伊豆の三島へやってきたってことなんです。その一族は渡神系だった。
三島明神がどこから白浜に来たのか?っていう疑問に少しだけ答えが出ました。
◇事代主命
大国主命の子で出雲の国譲りの神話に出てくる神ですけど、本来は、葛城の賀茂一族の信仰の中心をなす神である、ということを指摘しておきます。
このことには、また後で詳しく書きましょう。
2.阿米津和気命
◆富賀神社の本来の祭神
延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』に記載された富賀神社の祭神は、実は「阿米津和気命」だけです。
その「阿米津和気命」が何者なのか?
実はよくわからない。
でも「あめつわきのみこと」という名からすると、天地を分ける神様(天地分命)ですね。
富賀神社の「富賀」という名称について、こんな説明があります。
「古くは三宅島中央の雄山の中腹八合目の富賀平にあって中央火口を祀る神社であったらしく、「富賀」は「戸ケ」すなわち、雄山の入口という意味であるという。」(富賀神社:http://www.genbu.net/data/izu/toga_title.htm)
こういうことから考えて、「阿米津和気命」は、活火山である雄山を象徴する神様ってことですね。
それが本来の祭神なんです。
3.伊古奈比咩
◆伊古奈比咩
三島明神のところで伊豆の白浜神社が出てきましたね。
その祭神は伊古奈比咩で、伊古奈比咩神社が本来の名前なんです。
その白浜神社のHP(http://www.ikonahime.com/)によると・・・
伊古奈比咩は伊豆の南に定住していた賀茂族の姫神だそうです。
伊豆には今も賀茂郡がありますね。
実は伊豆は、かなり早い時期から賀茂一族が支配していた場所なんです。
賀茂氏は、秦氏の中の秦氏というべき一族で、秦氏は新羅系の渡来人です。
その賀茂一族の信仰の中心が・・・さっき書いた、そう!事代主命なんです。
なんだか複雑になってきましたね。
4.三島明神と賀茂氏
三島明神は大山祇命なんだけど、それがまた賀茂氏、事代主命と結びついている。
この謎を少し解きましょう。
三島明神のところで、大山祇命を信仰する集団が、百済から渡って摂津の三島、瀬戸内海の三島へ、そして三宅島や伊豆の三島へやってきた、と書きました。
その摂津には鴨氏(後の賀茂氏)の勢力がありました。
そこへ大山祇命を信仰する集団=三島氏がやってくるのです。
摂津に来た三島の神社が、式内社の「三島鴨神社」です。
(現在の神社として、高槻市三島江の「三島鴨神社」と同赤大路町の「鴨神社」の2社が候補になって争っていて、どっちかわかりにくいんですが。)
赤大路町の鴨神社HPにはこんなことが書いてあります。
http://kamojinja.web.fc2.com/100719.html
摂津では、3世紀から4世紀にかけて三島氏が有力となり、4~5世紀に摂津は三島氏の勢力内にあった。
そして「鴨氏」と新興「三島氏」の共同支配となって、鴨神社が三島鴨神社になったのだ、というのです。
摂津で、賀茂氏と三島氏が結びついて、三島鴨神社を設立したんです。
おわりに
摂津で賀茂氏と三島氏が融合した。
また伊豆はすでに賀茂氏の勢力圏でした。
そこに三島氏がやって来たのです。
三島氏は最初は白浜に、そして伊豆諸島に渡り、最後には三島に落ち着いた。
そんな歴史があったようですね。
最後に結論をまとめましょう。
・富賀神社の祭神は、阿米津和気命で、活火山である雄山の象徴である。
・三島氏が祀る三島大明神は大山祇命で、摂津の三島鴨神社から来た。
・大山祇命を祀った三島氏は、摂津で賀茂氏と結びつき、さらに賀茂氏勢力圏の伊豆へやってきた。
・伊豆へ来た三島氏は、伊豆諸島を治め、三宅島の富賀神社を中心と定めた。
そういうふうに見てくると、三島氏は白浜、三島へと向かう途中で、伊豆諸島にも勢力を伸ばした、って感じですね。
なので富賀神社から発祥して三島神社へ行った、というのは三宅島と中心にした創作だと思います。
追記:
壬生氏のことは次回の記事に書いてあるんですけど、ここでも富賀神社と宮司の壬生氏について書いておきます。
三宅島役場HPにある「歴史」にこんなことが書いてあります。
http://www.miyakemura.com/databankrekisi.html
「平安時代初期、来島したとされる壬生氏は、三島大明神を奉り、大明神の代官として集団来島し、初代壬生御館から始まり、その後島長・神官としておよそ 1000年にわたり三宅島の祭政を統治してきました。壬生氏は三宅島の神々を三島大明神の后神・子神に再編し、代表神に雄山噴火を祀る富賀神社(とがじん じゃ)を仕立て、石の築地を作るなどしました。また壬生氏は海上交通の能力を持ち、 伊豆国との交易や行政的な連絡を行い、その勢力を保持したものとみられています。」
壬生氏は三島氏の一族として三宅島へ着て(集団来島)、「三宅島の神々」を三島氏の神である三島大明神の系譜に再編成した、ということです。
これまでの説明から、その意味がよく理解できるかと思います。
もう1つ、「三宅島の神々」について。
壬生氏が来る前の神々って何だったのか。
結論だけ言うと、縄文系のアミニズムの神々だったのだろうと思います。
雄山を象徴する神「阿米津和気命」もその1つなのでしょう。
それらが三島氏の神の系列に再編成されたということです。
初めまして。三宅島在住のものです。ブログを書いていて、三宅島の富賀神社のことが感動的なくらいにわかりやすく書いてあったので参照させてください。
トラックバックということの意味がよく分からないのですが、だめだったら言ってください。リンクをやめますので。
いま、三宅島の神社の勉強中です。ある集団の勢力や移動と神社や神様が関係あったというのは、最近気付いて、とても面白く感じています。
よろしくお願いします。
by はいいろくろろん (2013-01-02 20:10)
> はいいろくろろん さん
こんな分かり難い(!)ブログ記事を褒めていただきありがとうございます。
縄文人が住んでいた日本列島に渡来人(弥生人)がやって来て日本が形成されていきました。
その渡来系の各氏族の祖先を祭ったものが神社です。
それとは別に縄文人のアミニズムの神々もあった。
伊豆諸島の神々はもともとは後者の神々だったんだろうと思います。
それを壬生氏が再編成した、ってことは次回に書いているんですけど、そのことも書き足すことにしました。
by とんちゃん (2013-01-03 07:13)
とんちゃんさん、ありがとうございます。実はトラックバックとリンクを間違えていたようですが、トラックバックて面白いですね。
それにしてもとんちゃんさんは神社系に本当に詳しいんですね。勉強になります。
島に来て神社とアミニズムの双方を日々実感しています。島ではいまでもどちらかというとアミニズムの要素が強いように感じます。ちなみに壬生家は今でも「神様」と呼ばれています。神様についてきたお伴?だったのに神様って呼ばれているところがまた面白いですね。日本古来のごちゃ混ぜな信仰が生きている感じです。
by はいいろくろろん (2013-01-03 11:05)
> はいいろくろろん さん
神社の神様そのものよりも、その背後にある歴史に興味があるんです。
壬生家は「神様」なんですか!
富賀神社の境内社に「壬生宮」がありますもんね。
神官だから神の「お伴」なんですけど、でも実は三島氏や壬生氏が彼らの祖先=神様を連れてきたわけですから、本来は人が主人公なんです。
by とんちゃん (2013-01-04 07:24)
三島神のこと、考察ありがとうございます。
実は、建国神話に関わる重要な神格です。コトシロヌシが三島明神というのは、三島湟咋耳神の娘セヤダタラヒメへムコ入りをしたからです。経緯をすべて明かしました。
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by みシまる湟耳 (2023-10-19 01:29)
> みシまる湟耳さん
コメントありがとうございます。
神は実在せず、神は集団の象徴だと考えていて、神を人と同じに見る立場はとっていないのですが、興味深そうな本ですね。ありがとうございます。
by とんちゃん (2023-10-20 09:17)