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遠藤哲夫氏の『大衆食堂パラダイス!』を読む(3):後半 [食文化]

大衆食に関する書籍として遠藤哲夫氏の『大衆食堂パラダイス!』(2011年年、ちくま文庫)という本を紹介しています。

本書は著者遠藤氏の「おれの大衆食堂物語」であり、「昭和30年代にして1960年代の大衆食堂」の片鱗を留めている食堂が著者の「大衆食堂パラダイス」です。
一人称で語られる大衆食堂への熱い思いは、この本を読むとズンズンと感じます。

全編がこれ「おれの大衆食堂物語」のエッセーなのですが、その中から大衆食堂と大衆食に関する著者の考えを読み取ってみようと思います。

一昨日は本書のテーマをまとめました。
昨日はその内容の前半、今日はその後半部分を記事にします。

大衆食堂パラダイス! (ちくま文庫)

大衆食堂パラダイス! (ちくま文庫)

  • 作者: 遠藤 哲夫
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2011/09/07
  • メディア: 文庫

第3章 ぶらぶら食堂編(2) 大衆食堂の影を慕いて

第3章には、「大衆食堂の歴史」が書かれています。
ここで変わっているのはその方法です。
大衆食堂の歴史そのものを書くのではなく、現在ある大衆食堂を取り上げて、その姿の中に「大衆食堂の履歴や系譜」(p.191)を見いだそうとしています。

著者は「いろいろな大衆食堂のエピソードから、アレコレ考えてみる」(p.191)と書いていますけれども、実は単にアレコレではなく、大衆食堂の系譜についての考察がベースにあるのです。

ちなみに「大衆食堂の系譜についての考察がベースにある」というのは前著の『大衆食堂の研究』のことです。そこでの検討は、この章だけでなく、本書全体のベースになっています。

まず大衆食堂の系譜が述べられます。

・洋食屋
最初に「たいめいけん」と「神谷バー」が取り上げられる。
明治、大正、昭和初期の「バー」や「カフェ」を名乗った、「西洋料理店とはちがう、日本的洋食屋カジュアルで簡便な大衆洋食の店」は「大衆食堂の前身の1つ」(p.196)と位置づけられる。
ただし著者にとっては、この両者は「大衆食堂」としては「違和感がある」という。「おれの大衆食堂」である「昭和30年代にして1960年代の大衆食堂」とは違うからである。

・一膳飯屋
大衆食堂の前身といえば、文明開化以前からの「いちぜんめしや」がある。フル漢字で書けば「一膳飯屋」ですね。」(p.197)
一膳飯屋が大衆食堂の本来の前身だと著者はいう。
「おれのばあい、おなじ大衆食堂でも、とくに文明開化以後普及した丼物や洋食などは少なく、めしと汁をたのんで、おかずは自分好みで選ぶということだと、そこに一膳飯屋を感じることが多い。」(pp.209-201)

・甘味喫茶
餅や餅菓子、あんみつ、まんじゅう、だんごを売る甘味喫茶が、のりまきやいなりずし、おはぎや赤飯、おにぎり、さらにはラーメンを出し、食堂化する流れがある。

・街道筋の飯屋

こうして大衆食堂の系譜をこうまとめています。

「いまの「食堂」は、どこで、他の飲食店を区別されるのか。それは、米のめしを食わせるのが主な業だと考えるとわかりますい。(中略)「食堂」という呼び方は、文明開化後の洋風の風俗として、広まったとみていい。テーブルにイスでめしを食うスタイルの広がりでもある。(中略)
昔ながらの一膳飯屋に、大衆化する西洋料理店が加わる、そしてカフェ
(中略)
この時代(大正時代)に大衆食堂の原型が生まれたといえる。」

大正時代に大衆食堂の「原型」が生まれるのですが、それを「大衆食堂」と呼ぶことが定着するのは、昭和13年(1938年)5月、東京府料理飲食業組合大衆食堂部ができたことによります。

その歩みを著者は常磐食堂を例にして語ります。
1918年(大正7年)に開業した常磐食堂は、「カフェ」に始まりますが、「戦中の外食券食堂、戦後の民生食堂東京都指定食堂という、大衆食堂誕生前夜あるいは混沌から今日までの、大筋の流れを歩んでいる」(p.229)

 

第5章 ウンチク食堂編 大衆食堂の楽しみ

最後の第5章では、変化していく大衆食堂の過去と未来(?)が語られます。

前半では、「大衆食堂の歴史」が簡単に書かれています。
第3章で実際の食堂の例をして語らせた大衆食堂の歴史を、歴史そのものとして整理してあります。
先に指摘したように前著『大衆食堂の研究』での検討結果をここで要約的に述べています。

江戸から現在までの大衆食堂とメニューの変化を述べています。

「大きな流れを単純に整理すると、江戸期の普通だった縄暖簾や煮売り屋や一膳飯屋の時代から、昭和の大衆食堂への過程は、「白めし」が近代日本食の普通になる歴史でもある。(中略)米だけの、精米歩合はともかく精米された、うやうやしくも白い米のめしが普通といえるようになるのは、ほぼ大正期後半からで、安定するのは昭和30年代である。(中略)
江戸期の外食店の普通メニューと、戦後の大衆食堂のメニュー、大戸屋などの大衆食堂チェーン店のメニューなどのあいだに・・・大正期の公衆食堂のメニューを置いてみると、実にシンプルに近代日本食の普通の歴史が見えてくるように思う。(中略)
「洋食か和食か」など騒ぐ必要はない、「米ばなれ」を嘆くことはない。(中略)あるのは単に江戸中後期に始まる日本食の近代化であり、近代日本食のスタンダードの歴史である。」(pp.329-330)

そしてそうした変化は今も継続している

大衆食堂のイメージというと「和」になってしまう。しかしその「和」は昔と同じではない、と著者は言います。

「「和」とはいえ、戦前に普及した「洋」は含まれている。そして今日の大衆食堂チェーン店の時代になると、戦後に普及した「洋」も含まれる。しかし「和」のイメージだし、実際に肉料理はあるがバターをコッテリつかった料理はほとんどない。つまりそれが、近代日本食の普通の姿である。「洋」は「和」にのみこまれ変容し、近代日本食の普通ができている。」(pp.331-332)

「洋」のファミリーレストランやファストフード店が苦境に陥り丼物や麺類に手を出したり、牛丼チェーンが定食もやったり、結局、大衆食堂の大衆食メニューをこえられない。
その逆に、大衆食堂は新しい大衆食のハンバーグを和風ハンバーグから豆腐ハンバーグなるものまでこしらえてのみこんでいる。(p.332)

著者がここで言っていることは、大衆食としての近代日本食が新しい要素を取り入れながら、今も変化し続けているということです。そして今後もそのように変化していく。

そして後半では「大衆食」の楽しみが語られます。大衆食堂は「近代日本食のスタンダード」であり、そこにあるのは「普通にうまいめし」だ、と。

 

あとがき

大衆食が変化していく。それなら、大衆食を体現する大衆食堂も変化していきます。
すると著者の愛して止まない「昭和30年代にして1960年代の大衆食堂」とは違ったものになっていくかもしれない。

「あとがき」で著者はこう書きます。

「大衆食堂には、じつに雑多な「うまさ」が蓄積されている。・・大衆食堂の「うまさ」は、さまざまな新しいスタイルの飲食店に息づいている。「大衆食堂」の看板や暖簾は消えていくかもしれないが、その「息づかい」は、庶民の暮らしが続く限り引き継がれていく内容を持っている。」(p.532)

「大衆食堂」は無くなるかもしれないが「息づかい」は引き継がれる。
その息づかいとは大衆食のことでしょう。

いま大衆食堂が体現している「近代の味覚」、庶民・大衆の生活に息づく「普通にうまい」大衆食、生活料理。
それは形を変えつつも引き継がれていく、それが「近代の味覚」の未来であり展望ということでしょう。
でも大衆食堂は無くなるかもしれない。

そうならば、未来に引き継がれるのは「大衆食堂」ではなく「大衆食」なのでしょう。

2013年に出版された著者の新著は、『大衆めし 激動の戦後史』という題名です。
テーマは大衆食堂ではなく大衆めし=大衆食になっているのですが、この変化は当然の成り行きなのだと思います。


 
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