笠間神社@茨城県笠間市 [ 神社仏閣]
ただし「三大稲荷」というのは正確には存在しません。
総本宮の伏見稲荷と有名な豊川稲荷などに自社を加えて三大稲荷と称する神社がたくさんあるんです。
「三大**」って、そういう自称がよくありますよね。言った者勝ちだから。
笠間稲荷の「門前通り商店街」を南側から見たところ。
笠間稲荷神社の参道入り口。
入り口にキツネのオブジェがあります。
不思議なことに鳥居がありません。
というのも東日本大震災で壊れたようで、一の鳥居のあったところに縄が張ってあります。
「胡桃下稲荷神社」と書いてあります。
「胡桃」は「クルミ」のこと。
元々この地にはクルミ林があって、そこに稲荷神社を作ったので「胡桃下稲荷神社」(くるみがしたいなり)という名なのだそうです。これが正式名称なんでしょうか。
笠間稲荷神社の由緒については最後に語ります。
「胡桃下稲荷神社」だけに、参道や境内にクルミの木があって、それらも大事にされています。
参道の両側には仲見世があります。
こっちは閉まっている店ばかり。
反対側はにぎやか。
立派な神棚が売られていますよ。
こういうの売れるんですね。(不信心のとんちゃんにゃわからん。)
楼門。
重層入母屋造で昭和36年に竣工だそうです。
その奧、正面に拝殿。その後ろに江戸時代末期に建てられた本殿があります。
拝殿に向かって右に東門。
文化13年に再建された入母屋造りの建物。これは風格がある。
東門に掲げられたこの奉納額は、江戸消防記念会が昭和27年に奉納したもの。
「江戸消防記念会」は、江戸町火消しの伝統を受け継ぐ会で、正月に行われる出初式は有名です。
各組の名前と纏(まとい)の絵が描かれています。
笠間稲荷と江戸の火消しとはどういう関係なんでしょうか?
拝殿に向かって左に絵馬殿。
入母屋瓦葺の屋根で、柱14本の吹き抜け造りになっていて、外にも中にも大絵馬や奉納額が納められています。
これは昭和40年に深川笠間講が奉納したもの。
こちらは昭和39年に葛西の笠間講が奉納したもの。
「笠間稲荷講」は50人1組で、毎月お金を積み立てて、春にくじ引きで年に10人が代表して笠間稲荷を参拝するというものだったそうですが、現在ではそういう代参講ではなくて、全員で参拝する総参講になっているそうです。
松井圭介「信仰者の分布パターンからみた笠間稲荷信仰圏の地域区分」(pdf)
本殿の裏手に小さな末社があります。
右のやや大きいものが月読神社・白山神社・菅原神社・粟島神社。
白山神社・菅原神社・粟島神社の扁額はあるけど、月読神社のがない。
左の小さいほうが山倉神社。
ほとんど読めない。
山倉神社は、須佐之男、大国主に加えて、高皇産霊神が祭神。
高皇産霊神は天照が巫女として祭った本来の高祖神です。
さて、最後にこの神社のことを語ります。
まず稲荷神社のこと。
稲荷神社というとキツネが神体のように思われがちですけど、それは大誤解。
稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社で、その主祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とされています。
しかし伏見稲荷はもともとは京都の太秦(うずまさ)を本拠地とした豪族・秦氏の氏神です。
平安京遷都はこの秦氏があって行われたほどの大豪族です。
秦氏ももちろん渡来系で、新羅の渡来人という説が有力らしいのですが、百済の渡来人という見方もあって、謎が多いんです。(とんちゃんの過去の記事も新羅系渡来人と書いたり百済系渡来人と書いたり、いいかげんです。)
その秦氏系譜の一族がこの笠間に移り住んだのかもしれません。
その稲荷神は、その名が示すように稲の神ですが、本来は宇迦之御魂神じゃないんです。
でも食物神の宇迦之御魂神と同一視されるようになり、さらに農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神にもなって、厚い信仰の対象になっているのです。
次に笠間稲荷のこと。
社伝によれば創建は651年と伝えられているそうです。
この神社は正一位ですが、しかし旧社格は村社でした。
実は、笠間藩15代藩主の牧野貞長が、勅許を受けて笠間稲荷神社を正一位にしたそうです。
この牧野貞長は、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、そして老中になった人ですから、その権力を使って神社の位を獲得したのでしょうか。
笠間神社のHPによると、「常陸国風土記」(721年成立)に「新治の郡(庁)より東五十里に笠間の村あり」と記されているとあって、そのころ笠間の地名があったようです。
ちなみに古代の新治郡は、現代の新治郡とは全く違って、郡庁は下館の東の旧協和町あたり。
ただし「笠間村」という村があったのかどうかよくわからない。
鎌倉時代所初期に宇都宮一族の塩谷時朝が1219年に佐白山の山頂に城を築き、その後塩谷を「笠間」に改名しました。そして江戸時代にはそこを本拠に笠間藩が置かれます。
明治になって、1871年の廃藩置県で笠間藩が笠間県になり、その年に茨城県に統合されます。
こうして「笠間」という地名は藩の名としてはあったのですけれども、村の名称としてはなかったんです。
ところが1878年に、城があった上市毛村がちゃっかりと改称して、笠間町となるんです。
というわけで近世には笠間村という名称があったのかどうかわかりません。
でも塩谷時朝が笠間時朝に改名しのですから、やや広い地域を「笠間」という名で呼んでいたのかもしれません。
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