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「珍來」大研究 その1:珍來の歴史 [食文化]

つくば市に移り住んだとき、市内や周辺に「珍来」というラーメン店がたくさんあることにビックリしました。
犬も歩けば珍来に行き当たる、というくらいに多い。
そしたら、2013年にテレビ東京の深夜番組で放映された「めしばな刑事タチバナ」の第9回「中華チェーン緊急配備」にも珍来松原団地駅前店がしっかり登場しました。 やっぱ、多いのね。
  弊ブログの記事:http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2013-06-16-1

そんな珍来のラーメンは、安くて平凡という感じ。
だから暖簾をくぐることはほとんどありませんでした。

ところが!
「平凡」と思っていたラーメンを「シンプルでなかなか旨いじゃないか!」と思うように変化してきたんです。
まぁ、年のせいで、サッパリ系を好むようになったせいかもしれません。

いえいえ、それだけではなくて、確かに旨いんですよ。
麺はシコシコしていていい感じ。
しかもスープがしっかりとってあって、化調がほとんど入ってない。

地元民の話では、珍来はお店によって味が違うと言われていたんですが。
調べてみると、実は「珍来」にはいくつかの系列があることを知りました。

ネット情報は、かのwikipediaに以前は「珍来」の記事があったようですが、今では削除されています。
しかしかつての記事が、goo wikipediaに転載されています。ただしこっちも削除されそうですが。
goo wikipediaには「珍来」、「珍來総本店」、「珍來」、「珍来そば坊」、「珍来東金店グループ」の記事があります。

ネット上にはそのほかいろいろ情報があるんだけど、調べていくと、全くの誤情報があることもわかりました。
そういうの気になるんだよね・・・ということで・・・

「珍来」についてとんちゃん流に大研究!

ネット情報に加えて実際にお店に行って調べた情報で正確を期しています。

だから本邦初、(かなり)正確無比の珍來情報です!v(゚ー^*) 

記事が長いので4回に分けてアップします。(それでもまだ長いです。)

 「珍來」大研究 その1:珍來の歴史
 「珍來」大研究 その2:珍來と珍来の系列
 「珍來」大研究 その3:本社探訪
 「珍來」大研究 その4:珍來・珍来でラーメンと餃子を実食

第1回は、珍來の歴史、そして直系の会社についてです。

【珍來の歴史】

株式会社珍來総本店、株式会社珍來のHPの情報を中心に、さらに加筆して整理しました。
正確を期しているとはいえ、今回のかなりの部分はとんちゃんの推測、想像ですから、全部が事実だとは信じないで下さいね。

1908年 創業者・清水清氏が茨城県美野里町(現小美玉市)に生まれる。
1928年 上京し製麺業を始める。
1930年 「珍來式手打ラーメン」を考案する。
1935年 葛飾区小菅水戸橋通りに中華店を開店。
<戦争により営業中断>
1946年 終戦後、浅草瓢箪池脇にラーメン店1号店を開店。(闇市、現在はない。)
1947年 足立区千住八千代町(現梅田)の千住新橋たもとに開店。(現在はない。)
1963年 製麺工場を千葉県船橋市に移転する。(株式会社珍來の所在地)
1968年 2代目・清水和圭氏がのれん分け店を東京都足立区梅田に開店。
      後に2代目が、独立経営者育成のために暖簾分け店で任意団体「珍栄会」を創設。
1977年 株式会社珍來総本店を設立(現社長は3代目兄の清水秀逸氏)。 
           株式会社珍來を設立(現社長は3代目弟の清水延年氏)。
19??年 2代目・清水和圭氏が「珍栄会」を法人化し「事業協同組合珍栄会中華チェーン」を設立。
1988年 (株)珍來総本店が(株)珍來フードシステムを設立
1997年 (株)珍來総本店が「珍來」を商標登録。


1947年の足立千住八千代町(現梅田)の千住新橋たもとに開店したという情報は、珍來梅田店にあった新聞記事によります。(珍來梅田店@足立区:http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2015-07-23
その店の写真は(株)珍來のHPにあります:http://www.chinrai.jp/history.html

「珍栄会」は、暖簾分けした店を2代目が組織化したもので、後に事業協同組合になりました。
後継者育成のために独立時の資金融資を行っていて、加盟店は毎月5万円を積み立てて融資基金を造成しているそうです。(YouTube 「株式会社珍來総本店 10分版」より)

製麺業だった珍來が作り出した「珍來式手打ちラーメン」がどんなものだったのか?
それは後の回で検討します。

 

◆1977年の2社設立は「珍來の分裂」ではない◆

先の年表で示したように、1977年(株)珍來総本店と(株)珍來とが設立されます。
現社長は、前者が3代目兄の清水秀逸氏、後者が弟の清水延年氏です。
この状況から「珍來が分裂した」という情報がネットに溢れています。
しかしこれは誤情報です。

まず、1977年の2社設立は「分裂」ではありません

理由1
珍來総本店直営店のメニューには、(株)珍來総本店は2代目が設立したと書いてあります。
3代目兄弟の時代ではなく、2代目の時代に2つの法人が設立されているのですから、分裂ではない

理由2
 「ラーメン一筋「珍來」の清水社長は愛の人だった!」(YouTube) での延年氏の話によると、こうです。
ワンマンな初代の存命時に、2代目や3代目兄弟はそれぞれラーメン店を開業していた。
延年氏が36歳だったときに初代が急逝し、3代目弟が(株)珍來の社長、2代目が会長に就任した。

延年氏は「祖父が12年前に急逝した。」と言っています。
YouTubeの記事は2012年8月なので、初代は2000年に亡くなったようです。
とすると、1977年の(株)珍來総本店と(株)珍來初代清氏存命中に設立したもの。
だから「分裂」ではありません

さらに1997年の「珍來」の商標登録初代存命中に行ったもので、これも分裂とは関係ありません。

 

◆両社の関係は?◆

◇設立当初の分担関係

では次に両社の関係ですが。
元々の珍來は中華の飲食業と千葉県船橋市に工場がある製麺業との2つを営業していました。
そして1977年になって2つの会社を設立します。
その状況からすると、中華店を(株)珍來総本店に、製麺業を(株)珍來にした、と推察できます。
分裂ではなく、業態別に別会社にしての分業ですね。

◇両社の社長は?

現在の両社の社長は3代目の兄弟ですけど、会社設立当初はそうではない。
では、その設立当時の社長は誰だったのか?
両社とも初代が社長だったとも考えられますが・・・

先に紹介した「理由1」で、(株)珍來総本店は2代目が設立したという情報があります。
そうだとすると、中華店の(株)珍來総本店社長は2代目製麺業の(株)珍來社長は初代、ということだったのではないかと思います。

その後、2000年に初代が逝去され、その結果、3代目兄弟がそれぞれの社長に就任した、ということでしょう。

◇初代逝去後の変化-店舗の分割-◇

両社は飲食業(中華店)と製麺業とに分業していたと推測しました。
しかし現在、両社にはそれぞれ直営店があります。
これはどうしたことか?

初代逝去後、3代目がそれぞれの社長に就いたときに直営店を2社に分けたのではないでしょうか。
次回に示す県別の店舗一覧から見ると、東京、埼玉は(株)珍來総本店、千葉、茨城は(株)珍來に分けたようです。

ところで現在の店舗数は、前者が4店、後者が10店で、かなりアンバランスです。これはなぜか?

店舗数については、先のYouTubeでの延年氏の話で、(株)珍來の社長就任時に今の店舗地は同じではないが店舗数は現在と同じ10店だったということですから、当時から大きな変化はないのでしょう。
ならば店舗数の大きな違いはなぜか?

◇珍來総本店は珍栄会とともに経営者育成

たぶんこういうこと・・・
(株)珍來総本店は、珍栄会の運営と新たな経営者育成のために直営店を経営、(株)珍來は製麺業と多くの直営店の経営、にそれぞれ分化したのではないかと思います。

(株)珍來総本店がHPに「二代目・清水和圭が後継者育成のための組織・協同組合珍栄会を設立して、現在の会社の基礎を確立しました。以降、珍來は、関東一円にノレン分け店を百数十店舗展開してまいりました。」と後継者育成と会社の関係を強調するのは、こうしたことからだと思います。

その後、1997年に(株)珍來総本店が「珍來」を商標登録しますから、同社はその管理も行っているのでしょう。

もう1つ、製麺業についての分担についても変化があったのでないかと思います。
それは次の項目で検討しましょう。

 

◆現在の両社◆

(株)珍來総本店のHPにある「会社の構成」には右のような図が掲げられています。
(株)珍來総本店の下に(株)珍來がありますよね。

1997年に(株)珍來総本店が「珍來」を商標登録して、両社は「珍來」の商標を共通に使っていて、グループ企業ということになっているようです。

◇現在は両社でそれぞれ製麺

先に書いたように、両社の設立時には、製麺は(株)珍來(千葉県船橋市)の製麺所が一括して行っていたと推測します。
しかし現在は、右の図のように(株)珍來総本店も製麺を行っています。
同社の製麺所は、八潮ドライブイン店に隣接してあります。

したがって現在は、(株)珍來総本店と(株)珍來とはそれぞれが独立した製麺所を持って、別々に製麺を行っている。
(株)珍來総本店がいつ製麺所を設置したかはわかりません。
八潮ドライブインが出来たときか、あるいはその後に駐車場を潰して建てたのだろうと思います。しかもきっと初代の存命時と思います。

kousei.png

船橋と八潮との2カ所にある製麺所。かつては両者の運営を製麺業担当の(株)珍來が行っていたはず。
たぶん地域を分けて営業していたのだろうと思います。

◇初代逝去後の変化-製麺所の分割-◇

しかし初代が亡くなった後に、(株)珍來総本店と(株)珍來の事業を整理する中で、直営店を分担したと書きましたが、加えて製麺所の分割もしたのではないでしょうか。
(株)珍來が船橋の製麺所をそのまま継承し、(株)珍來総本店が八潮の製麺所を引き受ける。
八潮の製麺所の運営を(株)珍來から(株)珍來総本店へ移譲したのでしょう。
次回紹介するように珍來には多くの暖簾分け店がありますが、それらの店への麺の提供も両社に分かれています。

こうしてその後は2つの系列がしだいに別の道を歩むようになっていったのではないか。

改めて書きますけど、ここに書いたことの多くは、とんちゃんの推測、想像ですから、事実だと信じないで下さいね。


 
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通りすがり

憶測だけで凄いですけど当事者(総本店三代目)のインタビューで判明してるのは以下(分裂してないのは当たってます)

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清水社長:祖母が金銭をキチンと管理していたんですけど、祖母が亡くなると2年で、祖父が資産を全部なくしてしまったんです。ご多分に漏れず、放漫経営が原因で(笑)。

── この年代ではよく聞く話ですね(苦笑)。

清水社長:祖父は一回退いて、ウチの親父(二代目)が小さい製麺工場と10坪のお店(現・梅田店)だけでやり直したんです。

── それが現在の御社・珍来総本店の始まりですね。


清水社長:そこから立て直し、現在の34店舗程にまで発展しました。ただ、祖父も明治の生まれで気骨な人で、60歳過ぎてから、茂原で家賃3万円のお店からやり直したんです。それが90歳で亡くなるまで直営店20軒と傘下30軒程、年商20億まで行きましたから。
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要するに、

実質的に創業者(一代目)が晩年店傾けて廃業寸前で責任取って辞任
二代目(息子)に一店舗と製麺所引き継ぐ(珍來総本店)

創業者も反省して別に店を興す(珍来)

現在それぞれ創業者の孫が引き継いでる。


by 通りすがり (2017-11-08 21:25) 

とんちゃん

> 通りすがりさん
ネットで得られた情報から推測したんですけど、2つに分かれた理由がどうもわからなかったんです。
なるほど、そういうことですか。初代と2代目のときの別の経営をして、初代が亡くなった後で、それぞれを孫が継いだということですね。謎が解けました。
梅田店が再出発店だったんですね。そこはしっかり行きました。
とっても趣のあるお店でした。
ところで「通りすがりさん」って、カムジャ麺でコメントをいただいた方ですか?http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2013-10-05
こーいコメントをありがとうございます。
by とんちゃん (2017-11-09 21:58) 

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