蝦夷進出の輸送基地こそ鹿島・香取 鹿島神宮@茨城県鹿嶋市 [ 神社仏閣]
今日は祝日でお休み。
どんな祝日かっていうと「建国記念の日」、かつての「紀元節」です。
紀元節とは、神武天皇が即位した日のこと。
神武天皇は日本最初の天皇ってことですが、もちろんまったく神話上でのこと。
そんな神話をもとにした公休の記念日があるなんて呆れたもんです。
と、思ったらお隣り韓国にも10月3日に開天節という神話にもとづく公休日があるんですね。
どっちもどっち、と言えなくもない。
でもあっちは今は実在しない系譜の祖、こっちは万世一系と強弁される現存エンペラーの祖のことで、こっちは神話が現在に延長されているところが違っています。
さて、今日の話題は、そんな記念日だからというわけではありません。(たまたまそうなった)
宮城県石巻市の神社の記事を先日アップしました。
そしたら1月に参詣した鹿島神宮が、実は石巻つながりだったんです。
ということで、石巻つながりで鹿島の話題なんです。
鹿島神宮に行ってまいりました。
「神宮」を名乗る神社は、いまではいっぱいあります。
927年にまとめられた神社の一覧表「延喜式神名帳」ってのがあります。
その中で「神宮」なのは、大神宮(伊勢神宮内宮)とここ鹿島神宮、そして香取神宮の3つだけなんですよ。
神宮はたったの3つ。
だからここは由緒正しき「神宮」ってわけ。
香取神宮と合わせて鹿島神宮がなぜそんなに重要神社だったかは後ほど書きます。
ところで鹿島神宮の鹿島は「島」。でも神宮がある鹿嶋市は「嶋」なんです。
佐賀県鹿島市との重複を避けて「嶋」の字にしたらしい。
鹿嶋市の市制施行が1995年、片や佐賀県鹿島市は1954年ですもんね。大先輩だ。
地元は、旧町名が鹿島町で、鹿島アントラーズの本拠地だから鹿島市にしたかったみたい。
でも実は「延喜式神名帳」の社名が「鹿嶋神宮」だったもんで、なんとか「嶋」に落ち着いたらしい。
というわけで、延喜式でのかつての社名は鹿嶋神宮、今の社名は鹿島神宮ということだそうです。
ここ鹿島神宮の祭神は、奈良の春日大社と同じ神様なんだそうです。
そう聞くと、奈良の方が本拠かと思うと、いえいえ、実はこっちが本拠なんです。
春日神社の大本だ、ということは興味深い歴史がありますよ。
さて、ではまずは鹿島神社の様子から。
大鳥居(二の鳥居)。
これは杉の大木で出来た立派な鳥居です。
実は以前は、こんな石造りの大鳥居でした。(鹿島神宮HPより)
茨城県笠間市産の御影石を使った大鳥居だったんです。
ところが東日本大震災の地震でそれが倒壊してしまった。無残です。(鹿島神宮HPより)
それで境内から杉の木4本を切り出して、2014年に現在の大鳥居に建て替えたそうです。
「一の鳥居」は霞ヶ浦(北浦)の水上にあります。(鹿島神社HPより)
こちらは鉄製で、2013年に建て替えられたもの。
以前は陸上にあったのですが、建て替えのときに水上に移されたそうです。
水底からの高さは約18mで、世界遺産である広島県宮島の厳島神社にある海上鳥居が高さ16mなので、日本最大の水上鳥居ということになりました。
地元の新日鉄住金鹿島製鐵鉄所で造られた鋼板を材料にして、神栖市内で組み立てられたものだそうです。
赤い楼門。
1634年に水戸初代藩主・徳川頼房が奉納したものだそうです。
そして本宮。
社殿は1619年に徳川二代将軍・秀忠が奉納したもの。
さて鹿島神社の祭神は、武甕槌(タケミカヅチ)です。
この神様は、古事記の神話では、こんなことになっています。
伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)が交わって、いろんな神様を生み出す「神産み」のところ。
イザナミから火の神・迦具土(カグツチ)が生まれて、イザナミがその火で焼け死んでしまう。
それでイザナギがその迦具土の首を斬ってしまいます。
するとその刀の血が飛散って、生まれた神が武甕槌だ、となっています。
武甕槌はその後、大国主命(オオクニヌシノミコト)の国譲り(出雲を譲る)のときに、出雲に派遣されたり、神武天皇が東征したときの危機に際して、天から横刀を下ろして助けた神ともなっている。
こうして国土平定に活躍したとか、武具を献じたということから、武神・軍神と見なされています。
以上はもちろん事実ではなく、神話でのこと。
なんでそんな神話になったかについては、最後に書きましょう。
本殿の垂れ幕に描かれた神紋は2つ。
左に五三の桐、右に三つ巴。
鹿島神宮の神紋はHPでは、三つ巴なんです。(鹿島神宮HPより。)
五三の桐がなぜあるのかは、よくわかりません。
奥参道があります。
この奥に奥宮があるので向かってみました。
300m程の奥参道は鬱蒼とした巨木に覆われています。
ここで毎年5月1日に流鏑馬が行われるそうです。
おや、鹿がいます。
鹿園が設置されていますよ。
鹿は、祭神である武甕槌の使い(神使)ということになっています。
奈良の春日大社は、藤原氏の氏神を祀った神社です。
実はその氏神とは、鹿島神宮の祭神・武甕槌と香取神宮の祭神・経津主(ふつぬし)なのです。
その武甕槌を鹿島神宮から春日大社に分祀するときに、鹿に乗せて行ったそうです。
そんなわけで、奈良には鹿が多いのかな。
ただし奈良公園の鹿は、こことは違って、野生の鹿ですけどさ。
これはナニ?
道祖神じゃありません。
「さざれ石」ですって。
「君が代」に「さざれ石の巌(いわお)となりて」って出てくるから、「さざれ石」の名を聞いたことがある日本人は相当に多いはず。
でもそれがいったいどういう意味なのかを知っている人は、ほとんどいないんじゃないかな。
「さざれ石」は「細石」と書いて、小さな石のこと。
その「さざれ石」が大きな巌になるって、どういう意味?
石が小さく砕けるんじゃなくて、大きくなる?
実は、小石の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めて、1つの大きな岩の塊になる、ってことなんですって。
石灰石が雨水等で溶けて、それが小石を固める。
小石をコンクリートで固めたみたいなものですね。
その実物が展示されているわけ。
「鹿」とか「さざれ石」とか、脇道に逸れました。
でもわざとそらしたんじゃなくて、参道にあるんだもん・・・。
ともあれ、本題に戻って・・・神社のこと。
さらに奥参道を進むと。
奥宮です。
鹿島神宮の摂社に位置づけられている奥宮。
屋根には五三の桐と右に三つ巴の神紋。
1605年に、徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものです。
しかしその後、二代将軍の徳川秀忠が新社殿を建てたので、この位置に遷して奥宮としたものです。
鹿島神宮に詣でたおかげで、家康は関ヶ原の戦いに勝利した、っていう霊験あらたかな神様ですよね。
そんな鹿島神宮のこと、その歴史的な役割について少し書いておきましょう。
◆鹿島神宮の歴史的背景
古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦や手賀沼などを含む「香取海」という内海がありました。
(鹿島はかつては香島と呼ばれていました。島だったのかな?)
この香取海はヤマト王権による蝦夷進出の輸送基地だった。
鹿島神宮と香取神宮はその入り口にあって、その拠点だったわけ。
そして石巻は、鹿島・香取から北上したヤマト王権の軍隊の基地でした。
神話では、鹿島神宮の祭神・武甕槌の子・鹿島天足別命が、香取神宮の祭神・経津主の子・阿佐彦命とともに、海路北上して奥州平定および辺土開拓にあたったとされています。
ヤマト王権が鹿島・香取を拠点に東国進出を行ったことが、そんな神話に反映されているわけです。
両神宮の祭神は有力者・藤原氏の氏神でもあった。
そして記紀がまとめられる中で、イザナギ・イザナミのところや出雲の国譲り、神武東征にも登場する神になったのでしょう。
そして伊勢神宮に並んで、「神宮」と称されるようにもなった。
機会があったら香取神宮にも行ってみようかな。
おまけでもう1つ。
鹿島出身の有名人の1人に剣豪・塚原卜伝がいます。
卜伝は鹿島神宮の神官の子でした。
鹿島神宮前大町通りに「卜伝にぎわい広場」があります。
その脇の小路を入ると・・・
卜伝の立派な生家が今もあります。
ここは塚原卜伝が流祖となっている「鹿島新当流剣術」の道場が今もしっかりあるんです。
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