佐渡市小木で実物大の北前船に遭遇 [旅行先]
昨年、佐渡に行った時のこと。
佐渡というと・・金山、朱鷺、たらい舟・・多くの見どころがあります。
そんな中で、島の南端部にある小木町の「宿根木(しゅくねぎ)」集落は一味違います。
宿根木へ向かう途中で・・・重大な発見。
佐渡国小木民族博物館。
大正9年(1921年)に宿根木集落からこの高台に移転し、1970年に廃校になった宿根木小学校の建物を使用して、1972年に開館したものです。
廃校となった小学校を民俗資料館にすることは、佐渡で何度も調査を行った民俗学者・宮本常一の提案によるものだそうです。
googlのストリートビューがあります。
⇒佐渡国小木民俗博物館googlストリートビュー
校門の門柱には「宿根木青年會」の文字。
もう一方には「昭和弐年六月建設」の文字。
きっと1927年に青年会が、当時の宿根木尋常小学校に門柱を寄贈したんですね。
「博物館・千石船」と書かれています。
入り口の柱には「小木歴史民俗資料館」と刻まれた流木の看板。
受付で入館料500円をお支払いしてチケットをいただきます。
裏には民族博物館の沿革が書かれています。
1973年に収集した漁撈用具1293点、船大工道具1034点が、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
小学校の校舎の隣に巨大な建物。
この建物に目が止まって、慌てて車を停めたのです。
この中に入っているものは・・・
ひえー!デカい船!
千石船の「白山丸」です。
安政5年(1858年)に小木町宿根木で建造された「幸栄丸」を当時の板図(設計図)をもとに忠実に実物大で復元したものだそうです。
全長23.75m、最大幅7.24m、艫(とも)高6.61mという大きさです。
帆を立てたときに船全体の図。
(さど観光ナビから)
7月下旬に行われる白山祭のときには、帆を張った姿を見ることができます。
帆の大きさは155畳くらいの大きさだそうです。(でかい!)
宿根木の歴史が掲示されています。
中世からの港であった宿根木は、江戸時代に小木が西廻り航路の寄港地になってから、北前船造船の中心地になった。
北前船の説明もある。
ずいぶんと細かなことを説明してあるけど、北前船自体のことがいまひとつ分かり難い説明文です。
江戸時代には日本海や北海道の港から江戸や大坂(大阪)へ、米や魚などが船で運ばれていました。
船は瀬戸内海を通って大坂、江戸へ向かう西廻り航路と津軽海峡を通って江戸へ向かう東廻り航路があり、西廻り航路の船が「北前船」と呼ばれました。
18世紀始めごろになると、西廻り航路がさかんに利用されるようになりました。
東廻り航路は、太平洋側を北へ向かう黒潮の流れに逆らって走らなければならず、当時の船では航海が大変で、西廻り航路のほうが荷物を安く運ぶことができたからです。北前船は、「弁才船」と呼ばれる木造の大型帆船でした。
元々は瀬戸内海で使用された中小船舶で、主力の積石数は250石前後でした。
18世紀から船型が大型化し、江戸時代後期には1000石積が主流となります。
こうした千石積みの弁才船を「千石船」(せんごくぶね)と呼ぶようになりました。
船の舵です。
写真だとデカさがイマイチわかりにくいでが、デカいです。
船の上へ上ってみましょう。
船の後ろ・艫(とも)の方。
梁のような太い木は帆柱(マスト)です。
舟の先頭・舳(へさき)の方。
ここに帆柱を立てます。
ここは船底。
石が置いてある。
積み荷が軽いと船が不安定になるので、こうした石を積んだそうです。
持ち帰った石を加工する石工も発達したそうです。
小木民族博物館には、千石船に加えてもう1つ展示があります。
「小木歴史民俗資料館」と看板にあったもの。
廃校となった宿根木小学校を利用した資料館です。
古い小学校の建物がそのまんま。
教室がそのまんまある!
とんちゃんが入学したときの小学校って、こんな風に木製の机と椅子だったんです。
懐かしいなぁ・・・。
いろんな展示があるんですけど、写真に撮ったのはコレ。
北前船で、関西の土人形も佐渡に入ってきたというような説明があります。
その影響でできた佐渡市佐和田町八幡の八幡人形。
両津で泊まった元遊郭の旅館にもありました。
⇒佐渡市両津の元妓楼・金沢屋旅館のいろいろ
さて、では宿根木集落に向かいましょう。
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