宮城県名取市閖上で [3.11以後]
中断していた被災地巡礼の記事です。
今年の3月のことです。
息子と一緒に東日本大震災の被災地を巡るツアーをしました。
テレビでの情報しか知らない息子に、その目で見た方がいいよ、と言って親子の男2人旅です。
岩手県陸前高田市、宮城県気仙沼市、石巻市、仙台市荒浜へ行きました。
そして宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区へ。
以前にも何度か弊ブログでも記事にしました。
仙台市の南にある名取市。
閖上(ゆりあげ)地区は名取川の河口にある地域です。
赤が津波の到達地、紫が住宅の多くが流された地域です。
津波は5キロくらいの内陸にまで達しています。
(Google Earthより)
名取川河口や海岸沿いに市街地がありましたが・・・
(Google Earthより)
海岸沿いの市街地が津波ですっかり消滅してしまいました。
閖上地区には7300人の住民がいらっしゃって、震災時には約4000人のひとが在宅していたといわれます。
そのうちおよそ760人の方々が津波の犠牲に亡くなりました。
写真で見るように、平らな場所で逃げるところがありません。
「閖上」と書かれたあたりに、小高い日和山に上って周囲を眺めてみました。
日和山。
以前は立派な神社があったのですが、津波で破壊されてしましました。
ほんの小さな社が再建されています。
2つの柱が立っていますが、左が【富主姫神社】、右が【閖上湊神社】です。
脇に立て札があります。
総代でもある被災した宮大工さんが奉納したものだそうです。
(立て札は以前に撮った写真です。)
2014年8月11日に完成した慰霊碑があります。
でもここはパスしてしまった。
2014年9月に撮影された日和山からのパノラマ写真(
今もほとんど同じ光景です。
かつての住宅街は消失し、家の土台だけが累々と残っています。
(2014年7月に訪れたときの旧閖上中学校)
中学校は1階まで水没しましたが、2階以上にいた児童や住民約900人は助かって、ここで一夜を過ごしました。
しかし校外にいた14名のこどもが亡くなってしまった。
ここに来る途中で津波に流された方々も大勢います。
多くの方々がここを訪れていたのですが・・・
2015年12月から解体されてしまいました。
旧校舎の正門前には慰霊碑がありました。
黒い慰霊碑。
東日本大震災で亡くなった閖上中学校の生徒の名を記した慰霊碑です。
亡くなった14名の中学生の氏名が刻まれています。
その隣には、中学校の勉強机が置かれ、言葉が書かれていました。
【閖上中の大切な大切な仲間14人がやすらかな眠りにつける様祈っています。
津波は忘れても14人を忘れないでてほしい。いつも一緒だよ。】
【あの日、大勢の人達が津波から逃れる為、この閖中を目指して走りました。
街の復興はとても大切な事です。でも沢山の人達の命が今もここにあることを忘れないでほしい。
死んだら終りですか?生き残った私達に出来る事を考えます。】
(閖上の記憶HPより:http://tsunami-memorial.org/)
旧閖上中学校の校舎が無くなり、その黒い慰霊碑はさっきの白い慰霊碑近くに移転した「閖上の記憶」のところに移されていたそうです。
そのことを知らないで、白い慰霊碑や「閖上の記憶」をパスしたのは、全くの不覚でした。
(不覚が多い、ということは真剣さの足りない、そんな被災地巡礼をしている自分に腹が立ちます。)
2018年の4月に、て慰霊碑は内陸部に新設された閖上小中一貫校に移転されるそうです。
そして「閖上の記憶」は「ゆりあげ港朝市」の近くに移転するそうです。
⇒ゆりあげ港朝市HP:http://yuriageasaichi.com/
⇒ゆりあげ港朝市face book:https://ja-jp.facebook.com/yuriageasaichi/
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