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「千亀女」という名の芋焼酎と鹿児島県志布志の美女 [ 地方文化]

 

昨日の記事に「千亀女」という芋焼酎が登場しました。
鹿児島県志布志市にある焼酎メーカー・若潮酒造の焼酎です。

 

その「千亀女」という変わった名について調べると、面白いことがわかりました。 

 

千亀女とは

 

ググってみると・・・

志布志の民話に出てくる美女の名に因んでいる、ということがすぐにわかります。

 

その「千亀女」の民話は、どんな話かというと・・・。

志布志市の観光パンフレットには、こう紹介されています。
 ⇒志布志市観光パンフレット:http://www.city.shibushi.lg.jp/kankoumap/50d29b3b015.html

senkame

 

宝満寺の観音様の美しさを妬んだせいで、悲しい末路の悲劇です。

 

焼酎名がこの民話の女性に関係することは確かでしょう。

でも、本当にこの話に因んで命名したのかどうか・・・かなり疑問です。

この後味の悪い民話に因んで命名した意図が分かりません。

 

そこで、若潮酒造が芋焼酎のブランドを「千亀女」にした理由を改めて考えてみました。
もっと別の由来があるようです。

そして実は、美女の千亀女にも別の解釈ができるのです・・・

 

 

芋焼酎「千亀女」の由来

 

若潮酒造は、1968年に地元の酒造メーカー5社で設立した若潮酒造協業組合が、2008年に株式会社になったもの。
機械化による大量生産で安定した質の焼酎を醸造していました。

 

しかし「千亀女」は、「千刻蔵」での伝統的な醸造法によって作られています。

千刻蔵外観
千刻蔵(若潮酒造HPより)

 

2003年9月から操業を開始した「千刻蔵」での伝統的な醸造法とは・・・

甑(こしき)による麹米の蒸し、もろ蓋を使う麹造り、一次二次仕込みともに甕仕込み、木樽蒸留、かめ壺熟成、という手造り一貫の焼酎蔵。蔵名には、製造量は千石(=千刻)を上限とし、焼酎造りの精神や焼酎文化を未来へと継承する時を刻む決意が込められている。
 ⇒醸界タイムスWEB版:http://www.jyokai.com/?p=2497

 
「千刻蔵」で、甕仕込みかめ壺熟成

「千亀」は、この焼酎造りの特徴を表す言葉(語呂合わせ)として、採用されたものだと思います。

 

それをさらに地元では有名な民話の「千亀女」に当てたのでしょう。

単なる語呂合わせよりも民話の美女の方が、それっぽいですから。


以上は、わたしの勝手な解釈でして、ホントのところは若潮酒造さんにお聞きしないとわかりません。

 

 

宝満寺の観音様

 

とはいえ、あの後味の良くない「千亀女」の名になぜしたのか?

ここがちょっと疑問です。

 

若潮酒造さんは「千亀女」について、民話とは違う別の解釈を持っているのではないか?

なんだかそう思うのです。

それを勝手に推測してみました。

 

さっきの「千亀女」の民話を改めて読んでみると・・・

宝満寺運慶が作った観音様が来たとあります。

宝満寺は志布志町に実在するお寺で、運慶作とされる如意輪観音があったそうです。

しかし明治初期の1969年、廃仏毀釈で寺が焼失し、観音像も行方不明になったそうです。

その後1936年に観音堂が再建され、安産祈願に多くの人が訪ているそうですが、運慶作とされる観音像はありません。

 

宝満寺は聖武天皇の勅願寺として創建されたと伝わる古いお寺です。

そこに1320年に如意輪観音像が西大寺からもたらされて、宝満寺本堂に安置された。

でも運慶は1224年に没しているので、それを修理して、宝満寺に置かれたようです。

 

千亀女は実在した?!

 

民話では、千亀女は「向川原」に住んでいた。
向川原は宝満寺のあるところです。

民話のとおりなら、千亀女はその観音像が安置された時期に宝満寺のある地区にいた町人の美女です。

 

実は、宝満寺には千亀女の墓があるというのです。

正確には「千亀媛」の墓。

巡礼者rinzoさんのブログ・薩摩旧跡巡礼「宝満寺跡(5)」に写真入りで紹介されています。

rinzoさんは墓が出来たのは江戸時代ではないか、と推測しています。
だとしたら、かなり年を下ってから作られたものなので、千亀女が実在したかどうかは怪しい?

 

しかし、面白いことがあります。

その墓によると「千亀姫」は南北朝期(1336~1392年)にいた女性らしい。

そしてその墓を作ったのは楡井某(名は不明)。

 

宝満寺があるところから、川を挟んだ対岸に志布志城がありました。

川の名は前川。お城の前にある川だからかな。
そしてお城の対岸が、宝満寺がある向川原(対岸の川原)ということですね。

 

南北朝期の1348年に、楡井頼仲(1300?~1357年)が志布志城の城主になります。

楡井頼仲は南朝側の武将でしたが、戦に敗れ、1357年に志布志に自ら創建した大慈寺で自害しました。

 

宝満寺に観音像が置かれたのは1320年

「千亀姫」は南北朝期(1336~1392年)の女性らしい。
だとしたら、観音像が来て以降に生きていた人でしょうか。

そして1357年に没した楡井頼仲の末裔が、後に千亀姫の墓を設置した。

 

もしもそうならば・・・

 

千亀女は、観音像が来る前にいた向川原にいた町人の娘ではなく、その後に生きた楡井氏ゆかりの姫だったのかも。
それが戦に巻き込まれ、非業の死を遂げた。
あるいはケガを負って、その後に亡くなった。
それを悲しんで楡井の末裔が墓を建てた。

観音様の美しさを妬んだ美女ではない。
南北朝期に生き、戦火に巻き込まれて非業の死を遂げた姫・・・。

若潮酒造さんは「千亀女」についてそう思っているのかも。


 
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