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日本人の遺骨収集と宝覚禅寺の2つの慰霊塔とは [ 神社仏閣]

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前回の記事で、台中にある宝覚禅寺に戦前・戦中に亡くなった日本人の遺骨が集められて埋葬されていることを書きました。
しかも宝覚禅寺には2つの日本人慰霊碑があることも紹介しました。

どのような経緯で遺骨が集められたのか?
そしてなぜ宝覚寺に2つの慰霊碑があるのか? 

そのことについてご紹介します。

◆敗戦と遺骨の放棄
◆遺骨の収集
◆慰霊碑の建立
◆慰霊碑のその後

 

 

◆敗戦と遺骨の放棄


第二次大戦の敗戦時、台湾には約50万人の日本人がいて、その約7割が一般住民でした。
台湾が日本の統治下にあった期間だけでも約50年間。
長期間にわたって日本人が台湾に住んでいました。

ポツダム宣言で台湾が中華民国に返還され、邦人は1946年5月までに台湾を退去しました。
日本人は退去しましたが、亡くなった方々の遺骨や墓が台湾に残されたままになりました。

 

その後、1949年に国共内戦で敗れた蒋介石と南京中華民国政府が台湾に来ます。
大陸から台湾に来た中国人は約100万人。
大量の外省人が入ってきたため住居を大量に新設します。
そのために、日本人の墳墓も破壊されていきました。

台湾では、このとき大陸から来た人たちを「外省人」と呼び、それ以前に台湾にいた「内省人」として、今でも区別します。
そして昨日の記事で、日本の軍人・軍属として亡くなった台湾人の慰霊碑に揮毫した李登輝氏は、中華民国総統になった初めての内省人です。

 

◆遺骨の収集


1947年1月、台北市の北にある苗栗県太湖郷の野沢六和氏が、畑を耕していて13個の白木の箱を掘り出した。
中には500人ほどの遺骨が入っていて、箱書きから日本人のものと判りました。
畑は旧日本陸軍の病院跡地だったので、病院で亡くなった方の遺骨です。

nozawa.jpg
(1983年、苗栗県太湖郷での野沢夫妻。
野沢六和『遺骨拾いある記』1984年(pdf)より)

野沢六和氏は1917年生れの広東系の台湾人。
日本人の野沢ムメ氏と結婚して日本国籍となり、野沢姓となっていました。
1946年8月に苗栗県太湖にある陸軍病院跡に移住していたのです。


(台湾省苗栗県太湖郷)


野沢夫妻は、残された日本人遺骨の遺骨収集を思い立ちます。
1947年の春から台湾中の日本人の墓地跡を訪ね歩きます。
台湾中を回るために、2人は行商などをしながら遺骨収集をしました。
そして数年後にトラック数台分の遺骨を集められた。
この遺骨の収集や管理には多くの台湾人が関わりました。

その間に、外省人の移住による墓の破壊が進み、遺骨収集の必要は高まりました。

野沢氏の働きかけで、日本大使館は日本人の墓が荒廃していることを知り、1957~58年に台湾全体での遺骨収集事業を行います。
(日本は1972年に中国人民共和国を承認して、中華民国とは断交したため、現在は大使館がありません。)
こうして野沢氏らが献身的に収集した分も含めて2万人余りの遺骨が集まりました。

 

◆慰霊塔の建立


1961年に日本大使館が慰霊塔を建立して遺骨を安置しました。

遺骨の収集地別に、3か所に慰霊塔を建立しました。
 ・台北市の中和禅寺
 ・台中市の宝覚禅寺
 ・高雄市の覆鼎金公墓にある墓

中和禅寺には北部の3千人宝覚禅寺には中部の1万4千人高雄市の覆鼎金公墓には南部の3千人が安置されました。
なお遺骨収集後に、名前と遺族の分かった遺骨の一部(喉仏と頭蓋骨)は日本に持ち帰られています。

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宝覚禅寺の慰霊塔が、昨日の記事の「中部地区 日本人遺骨安置所」です。
中和禅寺の慰霊塔は、それと同じ形です。


(wikipedia Commons「File:杉本音吉墓.jpg」より)
覆鼎金公墓の慰霊碑は、台湾運輸社長杉本音吉氏の墓を譲り受けたもので、全く別の形状です。

なお、日本人の遺骨収集に尽力した野沢六和氏は、その苦労が元で喘息が悪化し、1983年に神戸郊外の長男宅で他界されました。

 

◆慰霊塔のその後


こうして建立された3つの慰霊ですが、しかし、その後は安泰ではなかった。

1998年、台北の慰霊塔が閉じられてしまう。
道路の拡幅工事が理由です。
それで遺骨を1996年に一時ということで、台中の宝覚禅寺に改葬されました。
しかし結局、慰霊塔そのものも廃されてしまう。

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その結果、宝覚禅寺の境内に「北部・東部慰霊塔」が建立されました。

高雄市の覆鼎金公墓にある慰霊塔についても問題が生じました。
2015年1月、高雄市政府は公墓を公園に変更することを発表。
慰霊塔は撤去か移転を迫られた。
結局、1918年に、雙湖森林公園(旧・高雄覆鼎金公園)に慰霊塔として残留し、遺骨は納骨堂に改葬されたそうです。
納骨堂がどんなもので、どこにあるのかは、わかりません。

【参考】
野沢六和『遺骨拾いある記』1984年(pdf)
野沢ムメ『私のアメイジング・グレイス』1999年(pdf)
知られざる日台の絆:高雄は残った「台湾の日本人慰霊塔」
宝覚禅寺の日本人納骨堂
許國雄監修、名越二荒之助・草開省三編『台湾と日本・交流秘話』展転社、1996年 


 
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