文武廟の謎と秘められた歴史 [ 神社仏閣]
カミサンと台湾ツアーへ。
日月潭にある文武廟へ行ったことを前回の記事でアップしました。
今回の記事は、その文武廟について、かなり詳しく書いてみました。
しかも正史には語られていない秘密、そして蔣介石が絡む秘密があります。
さて、3階層になっている文武廟には、それぞれの階層に神が祀られています。
1段目の水雲宮:開基元祖と文昌帝君
2段目の武聖殿(正殿):関聖帝君(関羽)と岳武穆王(岳飛)
3段目の大成殿(後殿):孔子と孟子・子思子
文武廟の普通の説明はこうなっています。
- かつて日月潭の湖畔には北吉集落の益化堂と水社集落の龍鳳宮という先住民サオ族のお寺が2つあった。
日月潭をダム湖にして、湖水の水位が上昇するので2つの廟が水没する。
2つの廟が買収され、1938年に、それらが合祀されて「文武廟」が建立された。 - 主祭神が学問の神・孔子と武の神・關聖帝君(関羽)なので「文武廟」と呼ばれる。
しかし、この説明がどうも変なのです。
そして調べてみた結果、全く異なる結論に至りました。
- 先住民サオ族のお寺、旧益化堂と旧龍鳳宮の主祭神は慚愧祖師である。
龍鳳宮は文武廟に合祀されずに、別の場所に移転して現存する。
旧益化堂は文武廟となり、主祭神の慚愧祖師は開基元祖として祀られている。
旧益化堂の祭神に関聖帝君(関羽)はあったが、文昌帝君、岳武穆王(岳飛)はなかった。 - 文武廟の当初の主祭神は文神・文昌帝君と武神・関聖帝君だった。
孔子は後からやって来て、関聖帝君の上に君臨し、文昌帝君は下に置かれる。
その仕掛人は蔣介石だ。
なぜ、そういう結論に至るのか、順番に説明しましょう。
第1の謎
香港にも「文武廟」があります。1847年に建立された、香港最古の道教のお寺です。
その祭神は、文神・文昌帝君と武神・関聖帝君です。
ところが日月潭の文武廟は、儒教の祖・孔子と道教の神・関聖帝君です。
儒教と道教が平然と混在している。
しかも2つの神が並立ではなく、三層構造の中層に関聖帝君、上層に孔子で、上下の差がある。
これは二重に変です。
第2の謎
じゃぁ、日月潭の文武廟には文昌帝君はいないのかというと・・・
下層の「水雲宮」にいます。
関聖帝君のさらに下です。これも並立ではなく、上下の差がある。
んー、どうも変です。
第3の謎
文武廟HPには、各祭神の解説があります。
⇒文武廟HP「祭祀神祇」
しかし、関聖帝君とともに水雲宮にある開基元祖の解説だけがない。
変ですよ。開基元祖とはいったい何者なんでしょうか?
第4の謎
かつて日月潭の湖畔には先住民サオ族のお寺、旧龍鳳宮と旧益化堂があった。
両者を合わせて「文武廟」としたというが・・・。
しかし文武廟の西に龍鳳宮があるようです。
おやおや?これは変ですよ。
そこで調べてみました。
その結果が以下のことです。
◆龍鳳宮は移転して、文武廟には合祀されていない!
龍鳳宮は、文武廟の西に今もしっかりあるのです。
(台湾好廟網「龍鳳宮」より。)
中国語版wikipediaには、ダム湖が完成した1934年に移転したとあります。
⇒中文維基百科「日月潭龍鳳宮」
龍鳳宮は移転して、文武廟に吸収されないのです。
◆文武廟の主祭神は關聖帝君と文昌帝君だった!
ということは、文武廟の祭神は 旧益化堂の祭神に由来する、ということです。
先住民サオ族の旧益化堂と旧龍鳳宮との祭神とは・・・
旧龍鳳宮の祭神は、慚愧祖師と玄天上帝。
旧益化堂の祭神は、三恩主、關聖帝君、文昌帝君、孚佑帝君、司命真君等。
⇒文武廟HP日月潭文武廟簡介より
旧益化堂には学問の神・文昌帝君と武の神・關聖帝君とが祀られていた、とあります。
香港の道教のお寺・文武廟と同じです。
そう考えるのが妥当ではないでしょうか?
◆文武廟には慚愧祖師が祀られていた!
益化堂にも興味深いことがあります。
日月潭の西に約30キロ、彰化県田中鎮に田中益化堂があります。
⇒facebook 田中益化堂-慚愧祖師
田中益化堂の祭神は、慚愧祖師、玄天上帝、關聖帝君の3つで、主祭神は慚愧祖師です。
しかも興味深い面白いことに・・・
田中益化堂の慚愧祖師の像は、元々は旧益化堂にあった。
それが文武廟に強制的に祀られ、戦後にそれをとりかえして、田中益化堂に祀っている。
旧益化堂の慚愧祖師像が文武廟に祀られていたのです。
ということは、文武廟に慚愧祖師が祀られていたのです。
◆文昌帝君は文武廟建立時に加わった!
田中益化堂は慚愧祖師、玄天上帝、關聖帝君の3つの祭神を「三恩主」と呼んでいます。
先ほど「旧益化堂の祭神は、三恩主、關聖帝君、文昌帝君、孚佑帝君、司命真君等」と紹介したました。
その「三恩主」とは、慚愧祖師、玄天上帝、關聖帝君のことだったのです。
旧益化堂の祭神はその3神だけだったなら、文武廟の祭神・關聖帝君は益化堂の祭神にもあったが、文昌帝君以下はいなかった。
ということは、文昌帝君は、文武廟建立の時に付け加えられたのです。
注:[4]坂野徳隆(p.73)には、益化堂の龍鳳宮の祭神に關聖帝君と文昌帝君を加えて文武廟としたとあります。旧益化堂の祭神は、龍鳳堂と同じく慚愧祖師、玄天上帝だけで、關聖帝はなかった、という理解です。しかし益化堂の祭神に關聖帝君だけはいたと考えます。
◆開基元祖は慚愧祖師
旧益化堂にあった慚愧祖師と玄天上帝は、龍鳳宮の祭神と同じです。
玄天上帝は、台湾では有名な神で、蓮池潭にも巨大な像があります。
問題は慚愧祖師です。
これこそ、旧益化堂の主祭神であり、龍鳳宮の主祭神です。
旧龍鳳宮はそれに玄天上帝が加わり、旧益化堂にはさらに關聖帝君が加わっている。
では慚愧祖師とは何者なのか?
唐の時代に福建省にいた仏僧です。
それが死後に慚愧祖師として神格化されます。
1683年、台湾が清朝に編入され、台湾の奥地の先住民の地に入ってくる。
清朝の軍隊は、先住民が首狩りをすると怖れ、慚愧祖師を守護神とした。
漢人が祀ったその神を先住民も祀るようになった。
益化堂と龍鳳宮については、こういう紹介もあります。
18世紀に先住民サオ族に疫病(天然痘)が流行した際に、サオ族がすがるような思いで漢人の神にご利益を求めた。
そして疫病が治まったことからサオ族の信仰対象となった。
⇒[4]坂野徳隆(pp.72-73)より。
その神とは、慚愧祖師のことなのか。あるいは玄天上帝のことなのかもしれません。
旧益化堂の主祭神であった慚愧祖師は文武廟に祀られました。
その像は戦後に、田中益化堂に安置されるようになりました。
では、祀られていた神としての慚愧祖師もなくなったのか?
いえ、文武廟の開基元祖として祀られているのが慚愧祖師である、と考えます。
玄天上帝は・・・無視されたようですが。
ここで大いなる疑惑
孔子のことは、どう考えるのか?
あとから孔子は入り込んできて、孔子と関羽で「文武」になったったと推測しました。
しかし、いったいなぜ、そしていつ、だれが、そんなことをしたのか?
◆蒋介石の指示で孔子廟が誕生
現在の文武廟は三層の大建築です。
これは1969年から1975年にかけての全面改修によるものです。
そのとき蔣介石が、「前、中、後三殿式」の北朝式にする、武殿には関聖帝君と岳武穆王,文殿には孔子を祀る、と指示します。
⇒日月潭文武廟HP「文武廟的歷史」
孔子は蔣介石のこの指示で追加されたんだと思います。
しかも文武廟の最上段にあって、そこは孔子廟になっています。
わたしのこの推測が誤りで、文武廟の当初から孔子はあったのかもしれません。
しかしそうであっても、この指示で、武は関聖帝君と岳武穆王、文は孔子になって、文昌帝君は後衛に退いたのだと思います。
こうして仕掛人は蔣介石でした。
しかしなぜ、蒋介石がここまでしゃしゃり出てくるのか?
◆日月潭を愛した蔣介石
蔣介石は日月潭をこよなく愛していました。
だから文武廟の大改修にも口をはさみ、金(寄進と補助金)も出したのでしょう。
湖を一望できる高台に、日本統治下の1916年(大正5年)に建てられた涵碧樓がありましたが、蒋介石はそれを避暑用の別荘にしました。
そして蔣介石はそこに多くの要人を招いています。
蒋介石の死後、涵碧樓は売りに出され、台湾の郷林集団が権利を取得して「日月行館」となりましたが、1999年9月21日の大地震で建物が倒壊しました。
その後、約5年をかけて改修して、2002年3月に、台湾屈指のリゾートホテル「The Lalu 涵碧樓」になっています。
蔣介石は、1971年に母のために対岸に「慈恩塔」を建て、またクリスチャンの妻のために教会も建てています。
さらには、文武廟の東に孔雀園も設置しました。
孔雀園は、ホテル建設のために閉演しました。
しかし先住民サオ族の権利を侵害したことで、行政訴訟となり、開発は見直しされているようです。
◆複製孔子像を文武廟に安置させた蔣介石
現在、文武廟に祀られている孔子・孟子・子思子の3像は、日本にあるものの複製です。
現物は、明の時代に造られて北京の孔子廟にあったものです。
しかし1900年の義和団の乱のとき、日本軍が孔子像らを奪って日本に持ち帰った。
それらが日本で古美術商や三重県の孔子廟を経て、最終的に西武グループの創始者である堤康次郎の所有となる。
そして堤はそれらの像をユネスコ村に孔子廟を建立して納めた。
1951年に開園した「ユネスコ村」は、西武グループの遊園地です。
だから、そこに収めたわけ。
しかしユネスコ村は、1990年に閉園。
現在、孔子廟は狭山山不動尊(正式名称は「山」が2つ)の「康信寺」となっています。
狭山山不動尊は、西武球場の前にあるお寺。
これも西武グループが各地にプリンスホテルを開発するとき、各地の文化財を集めて1975年に建てたお寺です。
1975年に台北市孔子廟管理委員会がユネスコ村の孔子廟を訪れ、孔子像出会います。
翌年、狭山市の孔廟典礼奉賛会が台湾を訪れ、台北市長に孔子像の複製の寄贈を申し出る。
1978年、中華民国孔孟学会から技術者3名がユネスコ村に派遣され、2ヶ月間にわたり3聖像を複製。
1979年、日本からの代表団26名も参加して、孔子像らを文武廟に安置する。
孔子像等の寄贈は台北市長に言ったもの。
しかし孔子像等は、台北市の孔子廟ではなく、文武廟に安置されます。
孔子像の複製を文武廟に安置することに蔣介石が介入したのでしょう。
孔子廟の複製寄贈の申し出は文武廟の大改修後のことです。
◆最後に:サオ族のこと
文武廟の祭神の経緯について、正史はウソが多いことを述べました。
しかし、語られるべき重要なことをこの記事では落としています。
益化堂と龍鳳宮は先住民サオ族の寺であるだけでなく、文武廟も日月潭もサオ族の居住地、聖地であったことです。
そして発電所建設のために彼らの寺だけでなく居住地が強制的に撤去されたことです。
参考文献に掲げた坂野氏の著書がサオ族のことを詳しく記述しています。
先住民のことについては、私自身もこれから勉強したいと思います。
【参考】
[1]日月潭文武廟HP
[2]中文維基百科「日月潭龍鳳宮」
[3]facebook 田中益化堂-慚愧祖師
[4]坂野徳隆『台湾 日月潭に消えた故郷 流民の民サオと日本』ウェッジ、2011年。
[5]Southern Valley Diary「文武廟」
[6]狭山山不動寺史:http://web2.nazca.co.jp/dfg236rt/page307.html
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