水戸黄門様と助さんの晩年の地 西山荘(西山御殿)@茨城県常陸太田市 [旅行先]
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奥久慈の夫婦旅行。
1日目は大子町で、月待の滝に行き、もみじ苑で蕎麦のランチ、そして袋田の滝へ行き、常陸大宮市の秘湯の宿へ。
2日目は、常陸大宮市で舟納豆と道の駅、そして常陸太田市へ。
「水戸黄門」で知られる徳川光圀の晩年の隠居所へ向かいました。
西山荘(せいざんそう)、西山御殿とも呼ばれるところです。
水戸藩二代目藩主・徳川光圀が、藩主の座を退いた後、没するまでの晩年を過ごしたところで、『大日本史』の監修に当たった場所だそうです。
ここに行くとき、カーナビやグーグルの目的地設定には要注意。
西山御殿(西山荘)の住所「常陸太田市新宿町590」や電話番号を設定すると、市営斎場から山中を歩くコースが出てきちゃいます。でも、実際には行けません。
「西山の里 桃源」の住所「常陸太田市新宿町57」や電話番号「0294-73-1300」に設定しましょう。
休憩施設「西山の里桃源」が入口です。
中にはレストランもあります。
館内にある西山荘のペーパークラフト。
「御殿」と言うにはほど遠い茅葺屋根の家ですね。
施設を通り抜けると、池がある広い庭園があります。この先に西山荘があります。
途中にある案内図。道なりに奥に進むと西山荘があります。
右手の高台にある不老池や晏如庵は後で行きました。
西山荘への入口。
その奥に建つ2本の丸太が「櫟(くぬぎ)門」。
「下乗」の立て札。ここで馬を降りよ!という意味です。
西山荘は1690年に建設されたもの。
光圀は翌1691年からここで過ごし、1700年にここで亡くなりました。
しかし1817年の野火で建物が焼失。現存する建物は1819年に8代藩主・齊脩が再建したものです。
現在は、公益財団法人徳川ミュージアムが管理して、一般公開しています。入場料は大人1000円、小中学生600円です。
茅葺屋根の通用門。
通路の脇には紅蓮池(瓢箪池)があります。
最初にある建物が隠居所かと思ったら、そうではなくて、守護宅。
1819年の再建後に御殿を守るために建てられた警備役の役宅です。
その隣にあるのが光圀の隠居所・西山荘。
玄関は6畳あって品格があるなんて書いてます。
でも茅葺の平屋建てで、内壁も粗壁(土壁)のまま、という実に質素な建物です。
建物内に、光圀公が仕事をされている姿を再現しています。
ここが御学問所で、ここで編纂の仕事をしていたそうです。
御文庫の脇に小さな塚(右)。「御胞衣塚(おえなづか)」です。
光圀公の胞衣(なえ。胎盤など産後に母体内から出てくるもの)を納めてある塚です。
元は、光圀が生まれた水戸市の三木之次(仁兵衛)の宅地内にありましたが、鉄道用地になったため1870年、ここに移設したものだそうです。
小高い丘から全体を眺めることができます。
とても穏やかな佇まいです。
帰りに西山荘の敷地を出たところで発見!
御前田ですって。
光圀らは5000平米の田を耕作して、年貢米を納めていたそうです。
その田の一部がここにあるんです。
さっき見た案内板のところに戻ります。
光圀に仕えた家臣のたちの屋敷があった不老沢(おいぬさわ)跡ですって。
佐々木介三郎、あの「助さん」の屋敷もあったんですって!
晏如庵(あんじょあん)という茶室もあるって。
階段を上ると不老池があります。元は川が流れる沢でしたが、ため池にされたそうです。
左奥の方に晏如庵(あんじょあん)が見えます。
【助さん住居跡】の案内板があるので、行ってみました。
池の脇のウッドデッキを進み・・・
さらに階段状の小道を進みます。
ここが助さんのモデル、佐々介三郎の住居跡ですって。
光圀より12歳年少の佐々は、『大日本史』編纂所である彰考館の総裁を1696年に辞してここに住み、光圀存命中の1698年に59歳で亡くなりました。
ちなみに格さんのモデル、安積覚兵衛は光圀より28歳年少で、彰考館総裁を佐々とともに務め、光圀亡き後も『大日本史』編纂に尽力したそうです。
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