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五島のバラモン凧について:似ている壱岐・鬼凧、平戸・鬼洋蝶、長崎バラモン凧なども [ 地方文化]

五島に伝わる「ばらもん凧」があまりに面白い。
なのでやや詳しく記事にしてみました。

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牛久市にオープンした五島うどん専門店「バラモン太」さんにあるバラモン凧です。

五島列島の福江島で今でも作られている「ばらもん凧」
が咥えているのはで、鬼の口の外に出ているのは兜の錣(しころ) です。
その下にベロのようなものがあって龍が描かれ、金魚のヒレみたいな手もあります。

凧の形は、普通は四角やひし形、奴凧です。
しかし、ばらもん凧は、かなり変わった形で、絵柄も独特です。
そして「ばらもん」とは、これまた奇妙な名前の凧です。

なぜこんな形と絵柄なのか、「ばらもん」とはどういう意味なのか。
実はよく分っていない、不思議な凧なのです。

その謎について、ネットでわかる範囲の情報をまとめ、考えてみました。

 

凧の形状と絵柄について  

長崎県内外には、ばらもん凧に似た凧があります。

◆壱岐の「鬼凧」(オンダコ)

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(ONDAKO:https://ondako.jp/en/product/demon-kite/より)
武者の兜に鬼が噛みついている。

壱岐には鬼退治の伝説があります。壱岐にいる鬼を豊後国の百合若大臣が退治しに来たというもの。凧の絵は、鬼の大将「悪毒王」(あくどくおう)」が百合若の兜に噛みついている姿を描いる、とされています。
なお、百合若大臣の伝承は各地にあって、浄瑠璃にもなっています。

 

◆平戸の「鬼洋蝶」(おにようちょ)

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(不苦労さんさん撮影:じゃらん「松浦史料博物館」より)  
武者の兜を鬼が咥えている。壱岐の鬼凧に似た図柄です。

平安時代中期、松浦家第5代・渡辺綱が羅生門で鬼退治している様子を描いているとされています。渡辺綱は平戸藩主の松浦氏の始祖であるため、彼の話になっているようです。

上の凧は「表洋蝶」と呼ばれる図柄で、「鬼洋蝶」には、もう1つの図柄があります。

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(天草の風「☆五島バラモン凧そして壱岐・平戸・長崎凧」より)
それが「裏洋蝶」という図柄で、武者の顔が無くて、鬼が兜の錣を咥えている。

1枚の凧の表と裏で絵柄が違っている、ということではなく、2種類の絵柄があるということです。表洋蝶は武家用、裏洋蝶は町民用という説明もありますが、はて、そうなのか。

表洋蝶壱岐の鬼凧に似ている。そして裏洋蝶五島のばらもん凧に似ています。
表洋蝶ー鬼凧裏洋蝶ーばらもん凧、それぞれが歴史的に関係するように思えます。

 

◆山口県見島の鬼揚子(おにようず)

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日本の国境に行こう!「全国凧あげ大会 in 見島」より)
四角形の凧ですが、図柄は鬼で、裏洋蝶に近い。
そして「おにようず」の名は「おにようちょ」に由来すると思います。

 

◆長崎の「バラモン凧」

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(天草の風「☆長崎のバラモン凧そして雲仙・島原の凧」より)
長崎市の浄安寺には1780年頃(江戸時代の天明期)に作られた、4m×2.4mの巨大な婆羅門(バラモン)凧があります。
写真のバラモン凧は、江戸時代のものではなく、五島列島の福江島で作成された複製です。

「バラモン凧」という名は、五島のものと同じです。しかしこのバラモン凧には龍だけが描かれていて、五島のものとは図柄が違って、鬼がない

長崎のバラモン凧についてもうすこし。

1797年(寛政9年)発行の『長崎歳時記』や文化文政期(1804~30年)編纂の『長崎名勝図絵(めいしょうずえ)』には、蝶バタ婆羅門(バラモン)剣舞箏(ケムソウ)などの凧の絵があるそうです。


18世紀の後半には「バラモン凧」が長崎に定着していたようで、そうした中で浄安寺の住職がバラモン凧を作ったのでしょう。

バラモン凧は、五島から長崎に伝わったのか、あるいは長崎から五島に伝わったのか。
五島→長崎と伝わったなら、「バラモン」の名は五島発祥でしょう。
長崎→五島と伝わったなら、「バラモン」の名は長崎発祥でしょう。

そして絵柄に鬼がないことから見て、元々の絵柄は鬼とは特に関係がなったのでしょう。

長崎では凧のことを「ハタ」と呼び、その典型はひし形です。
「蝶バタ」がどんな形状なのか分りません。
「剣舞箏」の名は、後述する中国の凧「風箏」に由来するものでしょう。

 

◆天草のバラモン凧

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(天草の風「☆天草バラモン凧そして角凧」より)
熊本県の天草にもバラモン凧があります。
天草のバラモン凧は、長崎から伝わったものとされ、いろんな図柄があり、鬼とは関係ありません。

 

◆会津の「唐人凧」

山口長門、広島、千葉上総、会津などには「唐人凧」あるいは「どうじん凧」があります。

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ふくしまの旅「会津唐人凧」より)
右のべろだしが有名ですが、ベロを出している人の頭に龍が噛みついています。
平戸の表洋蝶、壱岐の鬼凧の系譜の凧でしょう。

「唐人凧」の名から、中国由来の凧と思わせますが、実際、そうなのでしょう。

 

◆中国の風箏(风筝)

中国の凧は「風箏」と言います。(中国語の簡体字で「风筝」)

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「北京:中国四大风筝产地之一」より)
「風箏」はツバメやコウモリなどをデザイン化しているものが多くあり、写真のものは、全体はツバメ、胴体は金魚、手足はコウモリです。
風箏の「箏」(竹冠に「爭」)、中国語の簡体字で「筝」(竹冠に「争」)は、楽器の「こと」のこと。(正月に頻繁に登場する「琴」は、正しくは「箏」です。)
そして「風箏」は、「箏」の名が示すように、風に吹かれてうなりの音を出します。

独特な形状、目玉がギョロリとしたデザインも含めて、これまで紹介した凧はこの中国の「風筝」に由来するとみられます。

 

風筝・ばらもん凧・鬼洋蝶・鬼凧の歴史 

中国の風筝が北九州に伝わって、上記に紹介した凧になったのでしょう。
風筝を真似た当初の凧の絵柄は、目玉がメインで、武者姿は後に加わったものでしょう。

そうすると、平戸・裏洋蝶&五島・ばらもん凧の方が古い時期の図柄で、平戸・表洋蝶&壱岐・鬼凧はより新しい図柄ではないかと思います。

◆平戸・五島と中国との関係

平戸・五島は遣唐使や中国との交易の航路でした。
1069年に、嵯峨源氏の流れをくむ渡辺綱の曾孫・渡辺久(松浦久)が松浦郡の荘官となって壱岐国を含めて領有する。松浦一族は日宋貿易を行い、松浦党と称される水軍、倭寇となった。
現在の長崎県から佐賀県にかけて勢力を誇った松浦水軍は、瀬戸内海の村上水軍、紀伊半島の九鬼水軍と並ぶ三大水軍の一つ。源平合戦では当初、平家方であったが、壇ノ浦の戦いでは源家方につき、勝利に貢献した。また元寇にも参戦する。
平戸松浦氏は戦国大名となり、江戸時代には外様大名として平戸藩の藩主でした。そして五島は、平戸藩に属していました。
また戦国時代の16世紀に、中国(明)人・王道が領主松浦隆信の優遇を受けて平戸や五島を拠点に倭寇の頭目となり、密貿易を行っていました。

平戸や五島に中国の風筝が伝わり、五島のばらもん凧や平戸の裏洋蝶になったのではないでしょうか。もともとの絵柄は、目玉はあったものの鬼ではなく、兜とは関係がなかったでしょう。
それが壱岐に伝わり、壱岐伝説と合体して武者姿が加わった鬼凧となり、平戸に逆輸入されて表洋蝶になった。そして、目玉の鬼が咥えているものが、兜のシロコ(錣)になっていった。


◆五島と長崎のバラモン凧の関係

五島と長崎にバラモン凧があります。両者はどんな関係なのか?
五島→長崎の伝播と長崎→五島の伝播がありえますが、五島から長崎に伝わったのだと思います。
五島のバラモン凧の図柄はもともとは目玉が特徴だけれども鬼ではなく、その後に鬼の目玉の絵に変化したものと思います。壱岐から鬼の絵柄が平戸に伝わり、壱岐で武者姿が加わり、それが五島にも及んだのでしょう。

 

◆凧の骨格

中国の風箏からバラモン凧などが生まれたのですが、凧の構造は大きく変化しています。
以下に骨組みを示しますが、鬼凧やバラモン凧は風箏とは骨組みがかなり違っています。
またバラモン凧は鬼凧よりも骨組みが複雑です。
だからなんだ?・・・うーん、よくわからない。

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「中国の凧(2)中国凧の種類と特徴」より)
沙燕という種類の風箏の骨組み。

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☆大橋栄二の凧大図鑑☆『やさしい和凧ー九州ー』後半より)
鬼凧の骨組み。

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☆大橋栄二の凧大図鑑☆『やさしい和凧ー九州ー』前半より)
バラモン凧の骨組み。

 

「ばらもん」「ようちょ」の名について  

◆バラモンの名

「ばらもん」の名の由来についてはいくつかの説があるそうです。
1.五島の方言「ばらか」に由来していて「荒々しく 向こう見ず」・「活発で元気がいい」と言う意味
2.凧を空にあげたときに「バリバリ」と唸りの音が出るから
3.インドのバラモン僧から
4.その他

バラモン凧が長崎から伝わったなら3説がありえます。しかし五島発祥ならば1説のように思います。

 

◆「ようちょ」の名

「洋蝶」(ようちょ)の語源は不明で、鬼を退治する膺懲(ようちょう)のことか、ともいわれます。
しかし鬼の絵になったのは後のことで、もともとは鬼の絵ではなかったと考えられるので、鬼の膺懲が由来ではないでしょう。

長崎県北部・平戸・五島列島や壱岐では凧のことを「ヨーチュ」「ヨーチョ」と言うそうです。(国学院大学「日本各地で縁起物として扱われた凧」」)
なので、鬼洋蝶は、鬼の絵のヨーチョ(凧)ということです。
壱岐の「鬼凧(おんだこ)」は、凧のことを「ヨーチョ」から「タコ」と呼ぶようになってからの名でしょう。

こんな情報があります。

松浦水軍が活躍した当時、軍船や外国貿易船の安全航行のため、上部に「藤カズラ」をつけた凧を揚げ、その唸り音の強弱で、風の方向や強弱を測っていた。
16世紀に、中国から入ってきた”ようちょう”の名前から”ようちょ”とも呼ばれるようになったとも伝えられている。(にっぽん津々浦々 西へ東へ南へ北へ「2013.08.12 長崎」より。)


出展不明ですが、松浦史料博物館にそんな説明があるのでしょうか。
鬼洋蝶は畳1枚分もある大きなものです。だから船の航行に使った凧とは直接の関係はないでしょう。
中国の風箏は、もともと音を出す凧です。それが松浦、平戸に伝わったのでしょう。 

中国から16世紀に入ってきた「ようちょう」の名が「ようちょ」になったとあります。
16世紀ということなら、王道の時期に伝わったのでしょうか?
中国語の「ようちょう」が何のことなのかは、よくわかりません。


参考:
長崎webマガジン:http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken1303/index.html
天草の風:https://blog.goo.ne.jp/inspire1001/e/a11252d3b6a88717966a0a640907da7c
バラモンキングブログ:https://ameblo.jp/gototri/entry-10892178433.html


 
タグ:雑記 文化
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コメント 2

なるみ堂創作工房森田名美子

デザインをやっているものです。
先日壱岐に行って行ってきたところです。大変面白いお話で謎がいっぱいですね。
各地に残る凧のデザイン、おんだこ、バラモン凧、名前も面白いですね。

鬼って一体なんだろう。
壱岐には祇園山があるそうです、博多にもあるし、裏天王伝説も聞く。鬼は一体何者だったんだか、、、
by なるみ堂創作工房森田名美子 (2023-11-01 07:29) 

とんちゃん

> なるみ堂創作工房森田名美子さん
ご興味をもっていただいてありがとうございます。
記事にも書きましたけど、元々は鬼ではなく、たぶん鳥の目玉とかだったと思います。
そして壱岐で鬼の絵が加わったように思います。なぜ鬼になったのか、鬼退治伝説と重なったのかもしれませんが、よくわからないです。

壱岐の祇園山笠は1737年に八坂神社への奉納として博多山笠のものを借りて始めたものだそうですので、タコの鬼より後のことと思います。
by とんちゃん (2023-11-04 05:57) 

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