大船渡市魚市場と丸清食堂 岩手県大船渡市の被災といま [3.11以後]
昨日の記事でランチをいただいた大船渡市の丸清食堂さん。
近くにはこんな近代的な魚市場が完成しました。
老朽化した旧魚市場に代わって、新たな魚市場の着工は2009年3月に始まったのですが、東日本大震災の津波で被災し工事が中断。
その後、新市場の工事が再開され、2014年4月30日に新市場が営業を始めました。
現在は新魚市場が完成して、旧魚市場は撤去されています。
そんな食堂の周囲の被災状況と現在の様子を少し記しておきます。
三陸地方は山が海に迫っている地形のため、海岸近くの狭い平地に街がつくられてきました。
そこに東日本大震災の大津波が押し寄せてきたため、三陸の街はどこも甚大は災害を被りました。
被災当時の様子は大船渡市のHPにもあります。
http://www.city.ofunato.iwate.jp/www/contents/1304498614938/
津波の様子を地図で示します。
(日本地理学会津波被災マップより:
http://map311.ecom-plat.jp/map/map/?mid=40&cid=3&gid=0)
赤が津波の遡上範囲、青は家屋の多くが名がされた範囲です。
津波の高さは13mに及び、市街地の多くが被災しています。
地図中央の「+」が、丸清食堂がある場所です。
その周囲を拡大してみます。
食堂の周囲が青色じゃないのは、魚市場があるところは住宅地ではないからで、建物は津波で破壊されました。
被災地が帯状に狭いのは、その西側は標高が高くなっているためです。
食堂周囲の被災後の状況です。
食堂や周囲の建物が流されたことがわかります。
右側の南北に長いのは魚市場。
津波で被災しましたが建物は残り、5月から営業が再開されました。
※再開時の様子は「三陸のつぶやき」さんのブログ記事で・・大船渡魚市場の様子
現在の様子です。
古い魚市場の北側、地図の上の方に、新しい魚市場が建造されました。
それが冒頭の写真です。
丸清食堂は、被災前にはこんな様子だったようです。
右側の建物が丸清食堂さん。
丸清食堂さんは、以前の場所、旧市場の向かいに再建されています。
再建された食堂に今出来るのは、食べて応援でしょう。
東日本大震災による自殺が福島県では増加傾向にある [3.11以後]
昨年末に朝日新聞に載っていた記事。
「減らぬ福島の震災関連自殺 長引く避難生活、ストレスに」(2015年12月28日朝日新聞デジタル)
東日本大震災が原因の自殺者数についての記事です。
震災の被害が大きかった岩手、宮城、福島の3県の震災関連自殺者数は、集計を始めた2011年6月から今年11月末までで計154人に上る。
宮城県、岩手県では自殺者数はそれぞれ減っている。
震災直後の11年はそれぞれ22人、17人だったが、今年は11月末まででそれぞれ1人、2人になった。
(1人や2人でも自殺者がいるってことが問題ですが、それでもまずは減ったということ。)しかし福島では11年以降毎年2桁の自殺が続いている。
という記事です。
ところが、どうもそれだけではないと思います。
掲げられた図はこれです。
震災の自殺者数は、内閣府自殺対策推進室が集計したもの。
内閣府「自殺の統計」のページに、最新の震災関連自殺者数が示されています。
そこに、平成27年12月22日付けの内閣府自殺対策推進室の資料が示されています。
内閣府「自殺の統計」:http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/
図を見ると、宮城県、岩手県では確かに自殺者が少なくなった。
では福島県はどうでしょう。
依然として2桁とか、「減らない」とかではなく、「増加している」と私には見えますが、どうでしょうか?
福島県では「自殺者が増加している」。
そう言うべきではないでしょうか。
岩手県、宮城県では遅れていた住宅の復旧も徐々に進み、仮設住宅からの退去も進みつつあります。
福島県でも相馬市のように、避難指示区域に指定されず原発による強制的避難者がおらず、災害復興住宅などの団地が完成して仮設住宅が無くなったところもあります。
しかし、帰還困難区域(間積算量50ミリシーベルト超)や居住制限区域(年間積算線量20ミリシーベルト超)で、居住が制限されている地域では、帰還の見込みが立ちません。
また居住制限が解除される避難指示解除準備区域(年間積算線量20ミリシーベルト以下)でも、解除後の居住に不安があります。
ある日突然に立ち退きを命じられ、強制的に故郷から引き離され、しかも戻ることが出来ず、仕事も奪われる。
そういう状態を自分に想像してみることができるだろうか。
いまの自分の生活をすべて消去し、しかも故郷を奪われることを想像すると、それは恐ろしい。
避難先で職をみつけて、新しい生活を始めた人たちもいるでしょう。
しかし高齢者などはそうはいかない。
かつてはあった、ご近所の人たちとのコミュニティー。それがない中での生活だとしたら。
そしてそんな生活がいつ終わるのか見当がつかないとしたら。
このままでは、自殺者がさらに増える可能性さえあると思います。
どう解決したらいいのか、その処方箋をわたしが持ちえているわけではありません。
自分に出来ることは、福島のこと、福島の人たちのことを忘れないこと。
これだけは日本の国民として心に決めたい。
自殺者数について、もう少し述べたいと思います。
先の自殺者数を原資料から表にしました。(後掲)
年齢別にみると、15年は70歳以上満の割合が多い。
その一方で30、40歳代も多くなっています。
職業別では、高齢者の「年金・雇用険等活者」が多いですが、30、40歳代は「自営業・家族従業者」や「被雇用者・勤め人」でしょうか。
県別のデータがないのですが、自殺者数のほとんどは福島県なので、原発による自殺者は、高齢者だけでなく、より若い世代にまで広がっているといえそうです。
福島県の自殺者数が増加傾向にあり、より若い人に広がっているということではないか。
そうだとすると、原発による苦痛はより深刻になっているのだと思います。
◆東日本大震災に関連する自殺者数
◇年齢別
計 | 20歳未満 | 20-29歳 | 30-39歳 | 40-49歳 | 50-59歳 | 60-69歳 | 70-79歳 | 80歳以上 | |
2011年6~12月 | 55 | 1 | 4 | 4 | 4 | 11 | 19 | 7 | 5 |
2012年 | 24 | 0 | 2 | 4 | 3 | 5 | 5 | 2 | 3 |
2013年 | 38 | 0 | 4 | 3 | 6 | 13 | 2 | 3 | 7 |
2014年 | 21 | 1 | 1 | 1 | 4 | 5 | 7 | 2 | 1 |
2015年1~11月 | 20 | 0 | 1 | 4 | 2 | 2 | 2 | 7 | 4 |
◇職業別
計 | 自営業 ・家族 従業者 | 被雇用 者・勤 め人 | 無職 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
計 | 学生・ 生徒等 | 無職者 | |||||||||
小計 | 主婦 | 失業者 | 利子・ 配当賃 等活者 | 年金・ 雇用険 等活者 | その他 の無職 者 | ||||||
2011年6~12月 | 55 | 10 | 13 | 32 | 1 | 31 | 3 | 6 | 0 | 14 | 8 |
2012年 | 24 | 3 | 5 | 16 | 0 | 16 | 0 | 3 | 0 | 7 | 6 |
2013年 | 38 | 1 | 10 | 27 | 0 | 27 | 6 | 3 | 0 | 7 | 11 |
2014年 | 21 | 1 | 3 | 18 | 1 | 17 | 3 | 1 | 0 | 6 | 7 |
2015年1~11月 | 20 | 2 | 3 | 15 | 1 | 14 | 1 | 0 | 2 | 8 | 3 |
福島県南相馬市小高区のいま [3.11以後]
今週から仕事始め。
しかし始まったとたんに風邪をひいてしまいました。
困ったもんです。(´ρ`)
昨日の記事は、福島県南相馬市の小高区にある食堂でいただいたランチでした。
その南相馬市小高区は、現在は「避難指示解除準備区域」に指定されています。
震災当時は福島第一原発から20km圏内が一律に「警戒区域」に指定されて、全員が強制的に避難しました。
小高区もその中です。
その後、2012年4月に「避難指示解除準備区域」に変わり、日中のみ立ち入りができるようになっています。
しかし寝泊りすることはできません。
いまは、今年4月の指定解除を目指して、インフラ整備や除染が行われています。
食事がてらですけど、食堂の周囲の様子をほんの少し見ましたので、記事にします。
そして改めて考えさせられました。
霞が関ふくしま復興フェア [3.11以後]
※本日2つ目の記事
「霞が関ふくしま復興フェア」が霞ヶ関の官庁街で開催されるそうです。
7月29日〜8月6日に東京・霞ヶ関の7省のロビーなどで福島県の果物や飲み物、酒、加工食品、菓子などが販売されるようです。
ただし国土交通省、外務省、総務省は、セキュリティーゲート内での開催だから一般人は入れないみたいです。
買って、食べて福島を応援しよう!!
7月29日(水)11時~18時 | 経済産業省 | 別館1階ロビー |
7月30日(木)11時~19時 | 文部科学省 | 霞ヶ関コモンゲート西館2階 |
7月31日(金)11時~19時 | 国土交通省 | 合同庁舎3号館1階ロビー |
8月 3日(月)10時~18時 | 厚生労働省 | 合同庁舎5号館1階ロビー |
8月 4日(火)11時~18時 | 外務省 | 北庁舎2階202会議室 |
8月 5日(水)11時~18時 | 総務省 | 合同庁舎2号館1階ロビー |
8月 6日(木)12時~13時 | 農林水産省 | 本館正面玄関 |
経済産業省HP:http://www.meti.go.jp/press/2015/07/20150724003/20150724003.html
農林水産省HP:http://www.maff.go.jp/j/press/shokusan/ryutu/150724.html
東松島市の様子について少し [3.11以後]
先週からの続き。
宮城県東松島市へ行きましたので、同市のことを少し紹介します。
ランチをいただいた東松島市のメナージュさん。
(写真はgoogle「未来へのキオク」から。)
震災前はこんなふうに緑豊かなところでしたが・・・
ここ立沼地区には最大2.3mの津波が襲いました。
津波ですっかりなくなってしまった。
ここは建物は流されずに残ったのですが、地区内180世帯のうち大半の住宅が全壊・半壊したそうです。
それで集団移転が進んでいます。
そもそも東松島市はどこかっていうと・・・
宮城県の松島町の東にある。その東は石巻市。
赤いところが東松島市。
海岸近くには航空自衛隊の松島基地があります。
3.11の大震災と津波による被害は甚大でした。
赤いところが浸水域、青いところは住宅の多くが流されたところです。
津波の浸水域は3,419ha。東松島市の森林を除く面積は6,982haなので、その半分が津波で浸水しました。
家屋の被害は、全壊・半壊が11,054戸(全世帯の約76%)、一部損壊を含めると14,564戸(全世帯の約97%)で、ほぼ全ての家屋が被災してしまった。
そして被災による死者・行方不明者は1,133名にも及びました。(2011年3月1日現在の住民登録は43,142人。)
写真の「+」のところが、ランチをいただいたメナージュさんがあるところ。
東松島市では広い地域(赤い色の部分)を「移転促進区域」に指定しています。
希望者の土地を市が買い取り、居住者は集団移転することになっています。
メナージュさんがある地域(赤丸)もその対象になっています。
(東松島市HPより2014年10月現在)
ここ矢本西地区の移転先の造成が完成し、住宅の着工が行われているようです。
災害公営住宅(アパート)は今年着工かな?
二度と津波の心配がないように、とここに移転する人がいて、一方では従来の住居に住む人がいるのでしょう。
結局、コミュニティーが2つに別れてしまうのかも。
都市住民にとっては、コミュニティーなんて関係ないって感じかもしれないけど、いえいえどうして、とっても大切なものなんだと思います。
震災が起こって4年目になって、仮設住宅を出て、やっと自宅の再建ができるようになった。
これでも東松島市の復興はかなり早い方。
ほかの地域も少しでも早い復興を願ってやみません。
陸前高田市、復興途上にある今の一端 [3.11以後]
陸前高田市の記事をいくつかアップしましたけど、その最後に復興の様子を少し紹介します。
陸前高田市は岩手県の三陸海岸の最も南にある都市です。
三陸地方は山が海に迫っている地形のため、海岸近くの狭い平地に街がつくられてきました。
そこに東日本大震災の大津波が押し寄せてきたため、三陸の街は甚大は被害を被りました。
被災の状況とその後のことを以前にも記事で紹介しました。
「市街地が消滅、しかし・・」:http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2012-11-09
「震災時に孤立した半島、農業と漁業の復興はこれから@岩手県陸前高田市広田町」
:http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2013-11-22-1
(日本地理学会 津波被災マップ:http://map311.ecom-plat.jp/map/map/?mid=40&cid=3&gid=0)
陸前高田市の被災前の市街地。
赤い部分が津波の浸水地域。
陸前高田市の全体に広がっています。
湾全体からの津波が狭まった陸地に押し寄せたため、ずっと奥の方まで浸水しました。
青(紫)の部分が家屋が流されたところ。
市街地が壊滅的被害を被ったことがわかるでしょうか。
青い部分で色が抜けているところは農地です。
中央にある白っぽい「+」が市役所の位置です。
今回訪問した場所を地図に記しましょう。
岩手県大船渡市 碁石海岸での震災後の様子 [3.11以後]
岩手県大船渡市の宿に泊まりました。
東北自動車道の陸前高田ICから車で15分のところにある民宿。
「海鮮の宿ごいし荘別邸 海さんぽ」さん。
HP:http://umisanpo.info/
それで以前より高い場所に建物を再建して、「ごいし荘別邸 海さんぽ」として再出発しました。
その様子を紹介します。
宿のすぐ前は海。碁石海岸です。
なんで「碁石」なのかは、明日の記事で紹介します。
少し小高いところに宿があります。
震災後に新築された建物です。
福島県浜通りのいま~飯舘村 [3.11以後]
福島の記事を書いているときに、汚染土の中間貯蔵施設の建設受け入れのニュースがありました。
福島第一原発が立地する大熊町、双葉町に建設するというもの。
それへの感想は最後に書きます。
福島県 は、県東部の太平洋側の浜通、中央部の中通、西部の会津に分けられます。
東日本大震災で、浜通り地区は津波による甚大な被害を受け、中通りと浜通りは原発事故の影響を受けました。
その浜通北部にある飯舘村に行きました。
飯舘村は、汚染度に応じて「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」が設定されています。
帰還困難区域は、「5年間を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある、現時点で年間積算線量が50ミリシーベルト超の地域」であり、引き続き避難が継続される。この区域では、住民の一時立入りの際にはスクリーニングを確実に実施し、個人線量管理や防護装備の着用を徹底する。
居住制限区域は、「年間積算線量が20ミリシーベルトを超えるおそれがあり、住民の被ばく線量を低減する観点から引き続き避難の継続を求める地域」であり、帰還に数年以上を要するとみられる区域で、住民の一時帰宅(宿泊禁止)、通過交通、インフラ復旧など公共目的の立入りは認められている。
避難指示解除準備区域は、「年間積算線量が20ミリシーベルト以下となることが確実であることが確認された地域」で早期帰還を目指す地域であり、主要道路における通過交通、住民の一時帰宅(宿泊禁止)は柔軟に認められている。また、一時的な立入りの際には、スクリーニングや線量管理などの防護措置は原則不要となっている。
飯舘村役場前。
ここは居住制限区域で、年間積算線量が20ミリシーベルトを超えるおそれがある区域です。
なので、役場の機能は福島市に移転しています。
役場の前にモニタリングポストがあります。
0.72マイクロシーベルト/時です。
ってことは、年間6.3ミリシーベルト。おや、意外に低いです。(◎_◎;)
このモニタリングポストが示す値の低さは、すでに問題になっています。
モニタリングポストでの計測結果はネットで確認できます。
福島県放射能測定マップ(福島県):http://fukushima-radioactivity.jp/
全国及び福島県の空間線量測定結果(原子力規制委員会):http://radioactivity.nsr.go.jp/map/ja/area2.html
上記のサイトで、現在の空間線量を確認してみると。
飯舘村役場:0.489μSv/h(年間4.28mSv)
しかしすぐ近くのモニタリングポストは
いいたてスポーツ公園:1.384μSv/h(年間12.12mSv)
飯舘村立飯舘中学校:1.536μSv/h(年間13.46mSv)
飯舘村役場前の値は、3分の1程度しかない。
こんなわけで役場前のモニタリングポストの値はかなり低い。
これはどう見ても変です。
こんな話を聞きました。
このモニタリングポストの設置時に周囲が丁寧に除染された。
地面の石畳は、目に詰まった土を自衛隊の隊員が歯ブラシで掃除した。
そんな除染をしたからここだけ空間線量が低いんでしょう。
もちろんその周囲の線量は高いから、下がりきるわけではありません。
いったいこのモニタリングポストは何を測っているんでしょうか。
そういうわけで、このモニタリングポストの測定結果は全く役立っていません。
トイレタイムに立ち寄ったJAの直売所。もちろん今は使われていません。
村内を見て回りました。
住宅の周囲の除染が行われています。
剥ぎ取った土や雑草は黒いフレコンバッグに詰められる。
飯舘村の農地のほとんどは「作付再開準備」の区域に指定されています。
それでいま農地の除染作業も行われています。
剥ぎ取った土は黒いフレコンバッグに入れられる。
おや、酪農地帯でよく見かける光景に似ています。
刈り取った草がロールになっている。牛のエサにする・・・わけじゃない!
除染のために除草した草を、こうして丸めて、やはりフレコンバッグに入れるのです。
これは刈った草をビニール袋に入れてあるのだと思います。
草刈作業をしている人がいます。
きっとこの農地の農家でしょう。たった一人で黙々と作業をしているようです。
自宅に居住できず、現在は米の生産もできませんけれども、こうして除草して農地として利用再開する準備をしているんですね。
ほんとにお疲れさまです。
大量のフレコンバッグ!
田んぼの隅に仮置きされています。
山のように積み上げられているフレコンバッグ。
ここが仮置き場。ここにフレコンが集められます。
土は3段、草などは5段に重ね、その上に遮蔽用に1段重ねるそうです。
これは仮置き場の準備。
これまた広い仮置き場が整地されています。
ここにフレコンの山が築かれるんでしょう。(〃´o`)=3
飯舘村の農地のほとんどは「作付再開準備」の区域に指定されていますから、作付再開に向けた実証栽培が実施されています。
水田から米への放射性物質の移染率はかなり低いのですが、安全な米作りの実証が行われているようです。
。
これがその水田だそうです。
実際に作付けして、セシウムが米から出れば、全袋検査でチェックできるので、米の安全性は確保されます。
市販されている福島県産米は安全です。
しかし空間線量が下がらなければ居住中、作業中の農家の被曝問題が生じる可能性があります。
除染がどの程度成功するのか。やはり大きな課題です。
福島の記事を書いているときに、汚染土の中間貯蔵施設の建設受け入れのニュースがありました。
福島第一原発が立地する大熊町、双葉町に建設するというもの。
今日の記事で紹介するように、県内では各地で仮置き場に汚染土が山積みになっています。
その量は全体で2千万立方メートル、東京ドーム13~18個分という。
それをどうやって中間貯蔵施設に運ぶのか、大きな課題です。
3年で全ての汚染土を10トントラックで運搬するとすると、1日2千台のトラックが必要になる。
運搬ルートやフレコンバッグの耐用年数も問題になっています。
福島県知事はそれを最終処分地にしないように要求し、国は県外最終処分の案を示しています。
しかしそんなことが本当に可能なのでしょうか。別の場所が本当に見つかるのでしょうか?
中間貯蔵施設が建設される場所の住民は、用地が買収されれば「帰還困難」ではなく、帰還不能になります。
買収ではなく借地する場合でも今後30年以上帰還できなくなります。
いずれにせよ「帰還」は実際上不可能になるわけです。
そうなることを見越して、とりあえず「中間」ということにしているんでしょうか。
福島県浜通りのいま~南相馬市(2) [3.11以後]
福島県浜通り北部にある相馬市から南相馬市を通って飯舘村に行きましたので、南相馬市の様子を記事にしています。
昨日は通りすがりに見えた様子を紹介したのですが、今日は少し解説をつけてみます。
南相馬市は2011年に東日本大震災で地震と津波被害を受けましたが、それ以上に深刻なのは福島原発事故の被害です。南相馬市は福島第一原子力発電所から約10~40キロに位置しているからです。
http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/kinkyu.html#shijiより引用。
避難指示は、当初は同心円で出されましたが、しかしそれは科学的、客観的な根拠のないものであることが後に明らかになりました。
現在の避難区域は、汚染度に応じて「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」が設定され、20キロ圏内も「避難指示解除準備区域」となっています。
避難指示区域の変化は福島県HPにあります。
:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11050a/hinanchiiki-kuiki.html
帰還困難区域は、「5年間を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある、現時点で年間積算線量が50ミリシーベルト超の地域」であり、引き続き避難が継続される。この区域では、住民の一時立入りの際にはスクリーニングを確実に実施し、個人線量管理や防護装備の着用を徹底する。
居住制限区域は、「年間積算線量が20ミリシーベルトを超えるおそれがあり、住民の被ばく線量を低減する観点から引き続き避難の継続を求める地域」であり、帰還に数年以上を要するとみられる区域で、住民の一時帰宅(宿泊禁止)、通過交通、インフラ復旧など公共目的の立入りは認められている。
避難指示解除準備区域は、「年間積算線量が20ミリシーベルト以下となることが確実であることが確認された地域」で早期帰還を目指す地域であり、主要道路における通過交通、住民の一時帰宅(宿泊禁止)は柔軟に認められている。また、一時的な立入りの際には、スクリーニングや線量管理などの防護措置は原則不要となっている。
「避難指示解除準備区域」は、立ち入りや一時帰宅は可能ですが、避難指示は継続しているという理由から、自宅に夜間泊まれない。だから実際には「居住制限地域」とあまり変わりません。
南相馬市では、南部と西部に避難区域が指定されていますが、指定されていない区域、要するに居住できる区域が広くあります。
次に福島県のコメの生産ですが、作付け制限などが行われています。
農水省「避難指示区域等における26年産米の作付に係る取組について」 より。
http://www.maff.go.jp/j/press/seisan/kokumotu/140307.html
2013年産米は、帰還困難区域は「作付制限」、、居住制限区域と避難指示解除準備区域は「作付制限」と「作付再開準備」の両方があります。
さらに「2011年産米で500 Bq/kg等を超える放射性セシウムが検出」された地域、「2012年産稲の作付制限が行われた地域」と「作付を自粛した地域」は、「全量生産出荷管理」になっていました。
「全量生産出荷管理」の地域では、水田の吸収抑制対策を徹底した上で生産される米の全量を管理し、全袋検査を行うことになっています。
ただし福島県は、この「全量生産出荷管理」の地域指定の有無にかかわらず、米の全袋検査を行っています。
だから販売されている米の安全性は確認されています。
福島県産の農産物は全て食べられない、というのは誤りです。
2014年産米は、居住制限区域の一部が「作付制限」から「農地保全・試験栽培」になりました。
また「全量生産出荷管理」の地域が大幅に縮小しました。
ただし先にも書いたように、福島県は「全量生産出荷管理」の地域指定の有無にかかわらず米の全袋検査を行っているので、指定解除されても実際には全袋検査が行われます。
南相馬市では、2013年産米は「作付制限」と「作付再開準備」でした。
避難指示区域の図を見ると、南相馬市は一部地域が「居住制限区域」や「避難指示解除準備区域」ですが、それ以外の地域は避難指示がされていません。
しかし市は、避難指示解除準備区域は「作付再開準備」となるところを「作付制限」にし、指定のない地域を「作付再開準備」にして、全域で稲作を自粛していたのです。 (もちろん市が勝手に指定したのではなく、農水省と協議してそうしたわけですが。)
そうして作付を制限した結果、東電の休作賠償金が支払われていました。
今年の2014年産米については、「作付再開準備」地域が「全量生産出荷管理」になりました。
避難指示の無い地域が「全量生産出荷管理」になったわけです。
その準備として2013年に実証栽培が行われ、2014年には避難区域を除いて本格的にコメ作りを始めました。
ところが、市の作付け目標面積500haに対して実際の作付面積はわずか約94haにとどまりました。
目標の僅か2割です。ほとんどの農家は、米を作らなかった。
なぜそんなことになるのか。
福島民友「コメ作付け“農家苦悩” 南相馬で本格再開、セシウム不安」にこういう記事があります。
http://www.minyu-net.com/osusume/daisinsai/serial/140511/news1.html
背景には作付け時の収入が、市の補助金を加えても賠償額を下回るとの試算もあり、セシウムへの不安も拭えないままだ。
同市では昨年、流通を前提にした実証栽培が行われた。農家には作付けの有無にかかわらず東電の賠償が支払われたほか、作ったコメを売れば収入も得られた。しかし今年は稲作を自粛すれば賠償は継続し、作付けすれば賠償は打ち切られることになった。
収入の差を埋めるため、市は主食用米を作付けした農家に10アール当たり2万円、政府備蓄米を作ればさらに1万円の補助を決めた。しかし作付けを自粛した場合の賠償額は主食用米の収入を上回る見通しで、政府備蓄米を作った場合とも大差はない。
作付けを見送った原町区の農家男性(67)は「除染も進まない状況で労力を考えれば、賠償をもらえるうちはコメは作らない」と心情を明かす。昨年、旧警戒区域に近い原町区の旧太田村産米から食品の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超えるセシウムを検出しており、農家男性は「うちのコメから(基準値超の)セシウムが出れば、ほかにも迷惑を掛ける」と複雑な思いを吐露する。
別の記事によると、「震災前まで稲作の実績があれば、賠償金は10アールあたり5万7000円が支払われている。10アールの水田から上がる売上は多くて10万円、粗利は数万円という。」
WEDGE REPORT「震災復興を加速させるために(1)一向に進まない農業復興・南相馬市」:
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2633
10アール当たりで、粗利益数万円に3万円の助成を加えても休作賠償金に及ばない。
経営規模が小さい農家ほど単位面積あたりの粗利益は小さいでしょうから、小規模農家ほど作付しないインセンティブが大きいでしょう。
全市でコメ生産の自粛を行った結果、働いて得る収入よりも、働かないで得る収入の方が多いから、賠償金に依存する構造になってしまった、という問題が指摘されています。
そうした構造を作り出したそもそもの原因は原発事故にあるのだと思います。
助成金をつけて生産を促すだけでなく、これからの農業のあり方を計画して、生産再開を果たして欲しいです。
なお記事中の「セシウムへの不安」についての評価には異論があります。
生産者がそうした不安を抱くのは無理からぬことと思います。
しかし、福島県は全袋検査を行っているので、汚染された米が市場に出回ることは決してない。
だから「迷惑」のかかる心配はないはずです。
もちろん、セシウムが検出され、それで風評被害が出ることはありえますが、それはまさに「風評」。
実際には全袋検査が行われていて、セシウムが検出された米は出荷されない。
むしろ検査によって安全性が確認されることになっているのです。
そうした風評被害の問題については、セシウム汚染は限りなくゼロでなければならない、という「ゼロベクレル神話」とも係わって、放射性物資汚染の現状を理解しないといけなく、そうしたことを記事にしたいと思っています。
福島県浜通りのいま~南相馬市(1) [3.11以後]
福島県 は、太平洋側の浜通り、中央部の中通り、西部の会津に分けられます。
東日本大震災で、浜通り地区は津波による甚大な被害を受け、中通りと浜通りは原発事故の被害を受けました。
その浜通り北部にある相馬市から南相馬市を通って飯舘村に行きましたので、南相馬市の様子を2回に分けて記事にします。
南相馬市は2011年に東日本大震災で地震と津波被害を受けたのですが、それ以上に問題なのは福島原発事故の被害です。南相馬市は福島第一原子力発電所から約10~40キロに位置しているからです。
http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/kinkyu.html#shijiより引用。
現在の避難区域は、汚染度に応じて「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」が設定され、20キロ圏内も「避難指示解除準備区域」となっています。
どれも居住できない地域です。(詳しくは明日の記事で説明します。)
南相馬市の南部と西部に避難区域が指定されています。
しかし指定されていない白い区域が広くあります。
白の地域では居住できるわけで、その点では北に隣接する相馬市と同じです。
相馬市では農地が復旧されたところから営農活動が再開されています。
福島県では出荷されるコメの全袋検査が行われているので、安全性が確保されています。
ところが南相馬市ではそうではないことに驚きました。
農地の現状はこんな様子だったのです。
雑草は刈り取ってあるのですが、何も作っていないんです。
作付けされている田んぼはほとんど見当たらない。
野菜を作っているところが一部ありました。
なんで、こんな状況なのか?
南相馬市では市内全域での作付の自粛を行っていたのです。
正確には昨年までは全面自粛で、今年からは作付再開なのですが、まだほとんど再開されていないようです。
それはなぜなのか?
この点については長くなるので明日の記事にします。
黒いビニール袋が並んでいます。除染用に剥ぎ取った土、あるいは雑草が入っているのでしょう。
ここは海に近い所で、行っている作業は後に白く見える消波ブロックの置き場の造成で、その過程で除草した雑草等をフレコンバッグに詰めたのじゃないかと思います。
この地域は居住できるレベルの汚染ですが、追加被ばく線量が年間1ミリシーベルト以上(放射線量が1時間当たり0.23マイクロシーベルト以上)の地域では除染が行われているために、仮置き場が必要になります。
海岸近くにまだガレキが山積になっています。
避難区域内の震災ガレキだろうか?その処理が遅れているということでしょうか?
正確なところはわかりませんが、こうしてまだガレキ処理が残されています。
そんな一方で、「南相馬ソーラー・アグリパーク」という施設もありました。
HP:http://minamisoma-solaragripark.com/
ドーム型の野菜工場。
そして太陽光発電。
市が買い上げた津波被災地(市有地)を活用して太陽光発電所と植物工場を結びつけ、さらに子どもたちに体験学習をしてもらおうという施設です。
明るい話題なんですけど、これが将来の事業モデルになるのかどうかは、わたしにはよくわかりません。