昨年の東日本大震災の大津波で、東北・北関東の太平洋沿岸は甚大な被害を受けました。
お亡くなりになった方々のご冥福を改めてお祈りいたします。

とんちゃんも何度か被災地に伺いました。
どこも胸を締め付けられる光景が広がっています。
そんな中で、「食べて支援」などと脳天気なことを書きつづってきました。

このブログは「美味しく食べたところ、美味しく食べたもの。心地よく泊まったところ、気持ちよく入った温泉。」の記録。
要するに、もともと脳天気なブログなのです。
ただ、そういうものを提供してくれる人たち、特に地方のそういうところにエールを送りたい、という気持ちがありました。
だから、再起してがんばっているところを食べて支援、と紹介しました。

しかし、そうしてがんばっているピンポイントの努力の周囲には、今もまだ荒れた光景が延々と広がっているのです。
美しい話の一方で、復旧まで未だ道半ばの被災地の重い事実が厚く残されています。
それも書き留めておこうと思います。
被災地の小さな光を大切にすることは重要ですが、その背後にいまだ広がる巨大な陰の部分。
その一部でもアップできればと思っています。
毎日見る全国紙には、被災地の記事が載る機会が少なく、忘れ去られようとしている観がありますから。

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いま、震災被害の復旧が懸命に行われています。

しかし、残されている復旧作業がまだまだたくさんあります。

福島県の浜通りにある相馬市。

平地部分に水田が広がり、その山側に市街地がある。
砂州でせき止められた松川浦という名の潟湖(せきこ)があり、その上端には漁港を囲む市街地、砂州の付け根の下端には磯部地区の市街地があった。


日本地理学会津波被災マップより。)

そこに大津波が押し寄せた。
赤い部分が浸水域、青い部分が家屋が流された地域です。

砂州の下端の磯部地区。
海岸近くに大きな集落があり、その西側に水田が広がっていた。
集落は流され、水田は浸水しました。

磯部地区の道路。かつては集落の中にあって、バス停があった道。
道路の周りにあった家屋は津波で流されて、街は崩壊し、そのガレキはほぼ片付けられています。
無意識に走ると、ただの原野に見えます。

しかし残っている多くの土台が、かつてはここに家々があったことを静かに物語っています。
土台の周りにあまり雑草生えていない。いや塩害で生えてこないんです。

相馬市は、津波の甚大な被害があった地域を「災害危険区域」に指定し、建築制限を行いました。
ほぼさっきの青い部分です。
http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/saigai_kikenkuiki.html