さて、この本が扱っているのは、題名のとおり「大衆食堂」です。
本の冒頭、著者はまずこう書きます。
「食堂、といっても大衆食堂のことである。
こうまでことわらなくても、いまでは、「食堂」といえばほとんどが、「大衆的な食堂」という意味での、大衆食堂である。そこで、あえて、東京の大衆食堂については、こういわなくてはならない。
昭和30年代にして1960年代の「たたずまい」をとどめている大衆食堂のことである、と。
なぜこういう言い方をするのか、しなくてはならないかということは、これからなんとなくわかってくるはずだ。」(p.7)
著者は、東京の大衆食堂とは
「昭和30年代にして1960年代の「たたずまい」をとどめている大衆食堂」である、と限定しています。
ところで先日紹介した、この後の書である『大衆食堂パラダイス!』では、ちょっと違っていました。
「昭和30年代にして1960年代の大衆食堂が気になる、いまだ愛着を持っている。」(p.67)
「おれの昭和30年代にして1960年代の大衆食堂」(p.190)
『大衆食堂パラダイス!』では「おれの」大衆食堂というように、一人称でアプローチしています。
しかし『大衆食堂の研究』は、”大衆食堂とは”と客観的な定義づけ、決めつけをしています。
やはりこの本は「研究」と銘打っていますから、客観的風なアプローチしたんでしょう。
本書の目次。
ジャンクな大衆食堂に、ひとりで入れるかい?
煽動編*空前絶後、深い正しい東京暮らし
自立編*食堂利用心得の条 オトナの道
食堂利用心得の巻
事例の巻――少女の食堂初体験
食堂煽動語録の巻
放浪編*ワザワザでもいきたい食堂は死生のにおい
激動編*大衆の道、めしの道、食堂の道
思えば…編*田舎者の道
編外編*食堂誌史試論
編外編*食堂あいうえおかきくけこ
編外編*これこそ食堂
あとがき
この中から気になるところを紹介しましょう。
煽動編*空前絶後、深い正しい東京暮らし
正しい東京暮らしには大衆食堂でめしを食うことが必須だ、と著者は煽動しています。
そこで語られる食堂の意味づけが興味深い。
「まず、これだけは言っておこう。
東京の食堂を知っているひとは東京暮らしを知っているひとだ。ということは、東京の食堂を知らないやつは東京暮らしを知らないやつである。
(中略)
どの地方にいっても、暮らしというのは、その地方の暮らしである。ところが東京では「東京地方区の暮らし」は、がらくたのようにしか残っていない。つまり、がらくた、イコール、ジャンク。東京ジャンクライフとは、東京地方区の暮らしのことである。これをやらなくては東京暮らしにならない。それは、まさに大衆食堂からはじまるのである。」(pp.20-21)
「・・・田舎のめしを食ったとき、そう、田舎のめしを食ったといえるのは、その土地の名産名物を食ったぐらいじゃ、いくら食ってもだめで、土地のひとと交わりを深めながら食っためしがあったればこそである。
そんなこんなで、「東京のめしを食った」といえるのは、東京の大衆食堂のめしをあるていど食っている場合である、ということを、おれは全力で言い切りたい。(p.25)
「実際、東京というところは、何十年いても、ビジネス関係の人間のあいだを遊泳し、観光鑑賞感心しているだけで時が消えてゆくところなのである。あるいは、電話とファックスと配達があればすむような日々で終わる。そこには人柄と肉声のふれあいはない。」(p.28)
ある土地で暮らすとは、その土地のひとと交わりながらめしを食うことである、と著者は言っている。食事は生きる上で重要なことであるが、その土地での生活との関わりが大切なのだ、と。
東京の暮らしも同じで、「東京地方区の暮らし」を知らないといけない、そのためには東京の大衆食堂でめしを食わねばならぬのだ、と言うわけです。
「東京地方区の暮らし」っていうのが実にいい。
そして東京の大衆食堂の特徴をこう述べます。
東京の食堂一般ではなく、「おれの昭和30年代にして1960年代の大衆食堂」の特徴です。
「食堂は全国どこにでもあるのだが、地域によってまったくちがう「たたずまい」をもっている。」 (p.39)
そして東京の食堂の「たたずまい」とは・・・
「「いかがわしい」ことと「開き直っている」ことが、東京の食堂を解読するキーワードなのである。」 (p.42)
「いかがわしさ」は食堂の外形的な見た目のことを指していて、著者が言いたいのは大衆食堂の本質的な内容である「開き直り」にあると思います。
著者はこう言います。
「開き直り。それは庶民が発見自覚した最高の生きざまである。庶民道の根本といえよう。
その開き直りの食堂のたたずまいとは、どんなものだろうか。三つの特徴がある。
一、何者にも侵されない、何者にも従わない、独自の風がある。
二、女子供流行に媚びず、正しさを見失わない、オトナの風がある。
三、貧相にして貧乏を超えた風がある。
「正しさ」を棄て、なんでもかんでもあたりさわりのない優雅な街に変貌する東京で、これだけそろうとなかなかの凄味があります。
(中略)
東京の食堂には、おだやかな覚悟の底にギラッとする何かがある。ただならぬ・・・。たぶん、東京という密集の「下層」で開き直ったものにだけある特徴ではないか、とおもわれる。」(p.46)
「開き直り」った食堂は独自の風、流行に媚びないオトナの風、貧相にして貧乏を超えた風があるのだと。
食堂には庶民の開き直った生き様があり、それが庶民道の根本であり、そこに食生活の「正しさ」がある、と言っています。
庶民の生き様、それを食堂が体現している。
筆者は、大衆食堂を通して実は食生活あり方を問おうとしているのです。
著者には、食生活とは何のためにあるのか、という哲学があります。
「そもそも人間がめしをくうということは、あの立ちションベンのときの、充実感とか解放感という言葉であらわされる感覚の延長線上にある、「元気」のためじゃなかったのか。」(p.220)
立ちションとは余りにも卑近な例ですけど、人間がめしを食うのは「元気」のためだという、素朴かつ根本的な哲学があります。
食事とは料理とは何のためにあるのか、それは元気に生きるため、日々の生活のためにあるのだ、という理解があるのです。「豊富さ」、「便利さ」、「新しさ」ではない、生きるための庶民の食生活。
それを「大衆食堂」を通した語ろうとしているのです。