青森県五所川原市に行ったのですが、ふと、なぜここを「五所川原」と呼ぶのか?と疑問になりました。
そこで五所川原のことをググり始めたら、ロマンあふれる伝説から始まりました。

ところがそれをたどると、次々といろんなことが出てきました。
しかも話は弘前に飛んで行きます。
ややこしくなりますが、それを整理してみたのが今日の記事です。
・・・でもやはりややこしい。

◆「五所川原」のルーツ

2005年、平成の大合併で旧五所川原市と北津軽郡の金木町、市浦村が合併して誕生したのが新五所川原市
もとをたどると・・・
1954年に五所川原町と6村が合併して旧五所川原市に。
1889年に町村制施行で五所川原村が誕生、その後、1988年に五所川原町に。
1876年に江戸時代の五所川原村、喰川(しょくかわ)村、平井村、柏原村の4カ村が合併して五所川原村に。

ということで、現在の元町にあった五所川原村が名称のルーツです。
五所川原という名称は、江戸時代の五所川原村から、ずっと受け継がれた名称なんです。
かなり由緒正しい名称のようです。

 

◆「五所川原」の由来

ではその五所川原という名称は何に由来するのか

岩木川が屈曲して川原が五カ所あったため、五所川原と呼ばれるようになった、という説があります。
いかにも後付けの理由という感じです。

むしろ五所川原市元町にある五所川原八幡宮の伝説が面白い。
八幡宮の社殿前には「五所川原地名発祥之源地」と書かれた石碑が建っているそうです。

五所川原市発行の『五所川原の地名』の第2章に詳しく書いてありました。
 →五所川原市『五所川原の地名』:http://www.goshogawara-lib.com/chimei.html

江戸時代初めの頃、岩木川の大洪水によって、中津軽郡相馬村五所(現弘前市)の長慶(ちょうけい)天皇のご神体と伝えられる祠(ほこら)が流され、五所川原に漂着した。
それを新宮の某氏が拾って自村に持ち帰り、新たに祠を作り祭った。
それを聞いた相馬村の人達が新宮を訪れ、ご神体を持ち帰った。
ところが、翌年も、また翌々年も、再三にわたって大洪水で流され、同じ場所に漂着した。
相馬村の人たちは、これは天意であろうと諦あきらめ、その村に譲ゆずることにした。
ところが今度はそれを聞いた五所川原の人たちが「漂着したのは五所川原だ」と騒ぎだした。
そこで両村で話し合って、両村の氏神とすることに決まり、漂着した五所川原に鎮守八幡宮として宮を建立することになった。
そして最初に祀った地を新宮(しんみや)と名付け、漂着した場所は五所川原と呼ばれるようになった。
すなわち、長慶天皇ゆかりのご神体が漂着した川原ということで、御所の川原、五所川原といわれるようになったということでしょう。非常にロマンあふれる伝説です。


中津軽郡相馬村五所(現弘前市)の長慶(ちょうけい)天皇のご神体と伝えられる祠(ほこら)が流され、五所川原に漂着したというのが由来です。
それを氏神として五所川原に鎮守八幡宮が建立され、新宮という地名も誕生したというのです。
実にロマン的な由来です。

しかしホントの歴史はどうなっているんでしょう・・・
ここから五所川原の由来に関する旅が始まりました。