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宮沢賢治の家・羅須地人協会@花巻市 [旅行先]

今年7月、岩手県の花巻市に行ったときのこと。
花巻市は宮沢賢治ゆかりの地です。
JR新花巻駅から2キロのところにある宮沢賢治記念館は有名かな。
ここは花巻に行くなら1度は立ち寄らないといけない、というところです。(笑)

今回は、ちょっと違ったところに立ち寄りました。

羅須地人協会です。「らすちじんきょうかい」と読みます。
場所は、岩手県立花巻農業高等学校。
本当に学校の敷地内です。

この学校は宮沢賢治が実際に先生をしていたところです。
だから看板には「賢治先生の家」とも書かれています。

羅須地人協会のことは最後に書きましょう。

敷地に入ると説明書きの看板があります。

花巻市下根子桜にあった「賢治先生の家」を昭和44年11月に現在地(県立花巻農業高等学校地内)に移築復元したもの。
管理は、県立花巻農業高等学校同窓会が行っています。

これが「賢治先生の家」。
花巻川口町下根子桜(現・花巻市桜町)にあったもので、賢治の祖父が1904年(明治37年)に隠居所として建てた別宅です。

木造2階建て。
1階は10畳の洋室と8畳の和室の2室、2階は8畳の和室になっています。
入口は図の左上の出っ張ったところです。

入口に向かうと・・・

黒板に「下ノ畑ニ居リマス 賢治」だって!

自給自足をしていた賢治先生は、昼間は畑で野良仕事なんですね。
賢治の字体に真似て、雰囲気を出しています。

靴を脱いで家の中に入ります。
中には風の又三郎のマントがあったりします。
風の又三郎は実在しませんね。賢治のマントです。(笑)

ここが8畳の和室。
裸電球が下がっています。

父と意見が合わなかった賢治ですが、その最良の理解者は妹・宮沢トシでした。
そのトシが結核を患って、1922年(大正11年)7月から亡くなる直前の11月まで、この別宅に住んでいました。
それがこの和室です。
そして賢治は2階に同居した。

もう1つの洋室。

火鉢を囲んで木の丸椅子がおいてあります。
こうやってお話をしたんでしょうか。

賢治が実際弾いていたオルガンもある。
賢治が弾いていたチェロは宮沢賢治記念館にあります。

 

羅須地人協会と賢治のことを書いておきます。

1896年(明治29年)生まれの宮沢賢治は、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を1918年(大正7年)3月に卒業した。
しばらくして1921年(大正10年)11月から稗貫農学校(現花巻農業高等学校)教師となった。しかし1926年(大正15年)3月に、農学校を退職してしまう。

そして4月から、ここを改造して自給自足の生活を始めました。
それがこの「賢治先生の家」です。

賢治はその5月から、周囲の人々を集めてレコードの鑑賞会や子ども向けの童話の朗読会を始めたそうです。
そしてその夏、周囲の若い農民と「羅須地人協会」を設立しました。設立日は、旧盆の8月16日ということになっているとか。

その「協会」は実質的には賢治1人による私塾だったようです。
賢治は、昼間は周囲の田畑で農作業をし(自給自足の生活ですから)、夜には青年や篤農家を集めて、稲作法などの科学やエスペラント、農業技術や自らが唱える「農民芸術」の講義をしました。
この間に、賢治はチェロを購入して練習したそうです。

しかし1927年(昭和2年)3月に羅須地人協会の活動に関して花巻警察署長の聴取を受けたため、その3月で協会の活動を停止しました。
その後も賢治はこの別宅で独居生活をしながら農業指導を続けたそうです。
しかし1928年(昭和3年)夏に過労から病臥し、秋からは実家で療養生活を送ることになった。
そして1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去しました。享年37という短い人生でした。

ということなので、1926年4月から1928年秋までの2年半の間、この別宅で独居生活していました。

宮沢賢治記念館とは違った、賢治の1つの思いがこもった場ですね。


 
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