石巻市大川小学校跡と被災地 [3.11以後]
お詫び:記事をアップする順番を間違えてしまい、この記事を昨日、一時的にアップしてしまいました。
宮城県東松島市と石巻市に行ったので、被災地の現在についてその一端をご紹介します。
宮城県の北東部、三陸南部にある石巻市。
石巻港や漁場で有名な金華山を含む牡鹿半島があります。
宮城県石巻市も東日本大震災で甚大な被害をうけました。
山林を除く市域面積38,606haのうち5,654haが津波で浸水しました。
死者・行方不明者は3,959人にもなり(2011年2月末の人口162,822人、60,928世帯。)、全壊数・半壊の家屋は22,419にもなります。
市街地の被災状況を写真で示します。
写真中央の黄色い「+」が石巻市役所の位置。先の地図で「A」のところです。
(日本地理学会津波被災マップより。)
赤い部分は津波の浸水域、紫は家屋の多くが流された地域です。
津波は市役所よりもずっと奥まで浸水していきました。
市役所の南が浸水していないのは、高い丘になっているからです。
石巻市というと多くの児童が亡くなった大川小学校の名を想い出す人も多いことと思います。
校庭にいた児童108名中74名と教職員13名中10名が死亡・行方不明になられた。
その大川小学校のある地域を訪れました。
大川地区は石巻市の北東の海岸近く。
被災前の写真です。
中央の赤い「+」が大川小学校のあったところです。
河口からは4km、川が広くなっているところから3kmも奥まったところに学校がありました。
しかし大津波は、川のさらに奥にまで遡上していった。
赤い部分が津波の遡上範囲、青い部分が家屋の多くが流される被害を受けた範囲です。
学校の周囲は住宅地になっていました。
津波はそれらの住宅を破壊しました。
googleで見る現在の様子です。
津波で破壊された住宅やガレキは撤去され、今ではすっかり更地になっています。
かつての学校と住宅地。
津波は2階建ての校舎の屋根を乗り越え、裏山を約10mも上ったそうです。
現在は学校の建物だけが残り、周囲は跡形もない。
大川小学校のいま。
ここで多くの子どもたちが命を落としたと思うと胸が締めつけられます。
通りすぎる車の中からの写真です。
校舎のすぐ脇は山があるんです。
急斜面とはいえ、この山に逃れることになってさえいれば助かったのに・・・と思うとやりきれない気持ちになります。
小学校がある所からさらに進む・・・
河口の近くへ行きました。
googleで見る現在の状況。
河口付近が水没しています。そのあたりへ行きました。
googlemapでは、一部が海になって表示されていますが・・。
被災前の様子。元は防潮堤の西に田園風景が広がっていたところです。
右下が池で右上に海があります。
googleの写真では、津波で住宅が流され、地盤沈下で田んぼが水没しています。
国土地理院の2012年12月28日撮影の写真では、防潮堤が築かれて一部の農地が干陸化しています。
それで、ZENRINの地図を用いているgoogleの地図では、角形に海岸線が描かれています。
yahoo!、mapionも同様です。
上の写真中央の「平六」のあたりからの現在の様子を写真に撮りました。
右端に防潮堤が見えますが、その左の地盤沈下した農地が水没し、奥の方に広がる農地も水没してします。
道路の左側は津波による土砂が堆積したままの農地があります。
2014年からここの復旧工事が始まるようです。
「河北新報」の2013年3月2日にこういう記事があります。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1119/20130302_03.htm
石巻市大川地区は、県が震災前に進めていた圃場整備事業の完了目前に被災した。同地区の長面工区(224ヘクタール)は水没し、昨年8月にようやく排水が始まった。今後は除塩作業を急ぎ、14年度の営農再開を目指す。同地区圃場整備実行委員長の農家西村清彦さん(75)は「作付けに向けて少しずつだが、着実に復旧、復興を進めていく」と話す。
防潮堤を築いて2013年8月から排水が始まり、一部の農地が出現しましたが、そこは地盤沈下しているので海水面より地面が低くなっています。
堆積している土砂を取り去り、客土をして、除塩を行って、初めて営農再開になることでしょう。
現在水没しているところは使えるようになるのだろうか・・・。
こうして復旧が急ピッチで進められていますが、沿岸部にはこういう復旧困難なところがあちこちに残っています。
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