奥松島「絆」ソーラーパークと被災の傷跡@東松島市 [3.11以後]
宮城県東松島市と石巻市に行ったので、被災地の現在についてその一端をご紹介します。
宮城県、松島町の東にある東松島市。
赤いところが東松島市。
3.11の大震災と津波は甚大でした。
東松島市の森林を除く面積は6,982haですが、津波の浸水域は3,419haで、半分の土地が津波で浸水しました。
津波と地震による家屋の被害は、全壊・半壊が11,054戸(全世帯の約76%)、一部損壊を含めると14,564戸(全世帯の約97%)で、ほぼ全ての家屋が被災しまったのです。
そして被災による死者・行方不明者は1,133名にも及びました。(2011年3月1日現在の住民登録は43,142人。)
東松島市の南西部に島々があって、奥松島と呼ばれています。
地図は奥松島公社HPから:http://www.okumatsusima.jp/
奥松島は非常に風光明媚なところで、小高い大高森からの眺めは、松島四大観の1つ「壮観」と呼ばれています。
わたしは以前に家族で観光に来て、遊覧船に乗ったり大高森のレストランで食事をしたことがあります。
http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2008-12-13-2
さて、その奥松島にメガソーラーが建設されていました。
三井物産が設置した奥松島「絆」ソーラーパークです。
大きなパネルが並んでいる。
でも地上からだと様子がよくわかりません。
なんとソーラーパークの南側に見学用の展望台が造成されていました。
「絆」の字が刻まれた石が置かれている。
奥松島「絆」ソーラーパーク。
東日本大震災で被災した東松島市野蒜の奥松島運動公園跡地に建設された大規模太陽光発電所(メガソーラー)です。
「復興のシンボルに」と東松島市が誘致して、三井物産が市有地を借りて建設したもので、2013年1月に着工し、8月21日に運転を開始したようです。
奥松島公園跡地は全体で22万4千㎡で、そのうち約4万7千㎡に京セラ製の多結晶シリコン型太陽電池モジュール(出力245W)を1万4616枚敷き詰めてあり、年間発電電力量は2000kwh。・・・と言ってもよくわからん。(-。-;)
ソーラーパネルが並ぶ敷地は東京ドームに匹敵する広さで、一般家庭約600軒分の発電能力があるそうです。
上から見るとこうなっているそうです。
右端に現在地がある。
展望台から観るとこーんな感じ・・・確かにデカイ。(写真をクリックすると大きな画像になります。)
その展望の丘の上から周囲の様子を見ると・・・
すぐ脇でガレキ処理が行われている。
まだまだ、こういう作業があちこちで継続しているんです。
丘からメガソーラーの反対側を観ると・・・池?
冒頭の地図にあるように、メガソーラーの南側は海に繋がる入り江になっています。
西側にも大きな入り江がある。
しかし以前はそうではなかったんです。ご覧下さい。
震災前の写真。赤い部分は浸水域、青い部分は家屋の多くが流されたところです。
入り江のようなところは以前は農地(干拓地)で、メガソーラーの南には池(沼?)があった。
その農地が地盤沈下で水没してしまい、海と池とが繋がってしまった。
それでさっきのような地図になっているんです。
農地周辺にあった市街地は消滅してしまいました。
水没した農地の復旧作業はこれから行われるようです。
ソーラーパークの西側にある水没していない農地の状況が、これです。
ガレキは撤去されたけれども、堆積した土砂はまだそのまま。
水没した農地の復旧と合わせてここも復旧されるのでしょうが、時間がかかるようです。
「河北新報」の2013年3月2日にこういう記事があります。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1119/20130302_03.htm
東松島市野蒜地区では2月、地元の農事組合法人「宮戸干拓野蒜生産組合」が復旧事業の中止を市に要望した。 同地区はもともと海抜0メートル地帯で、干拓された80ヘクタールは今も水没する。同組合の菅野蕃(しげる)組合長(66)は「塩害と戦ってきた経験から言えば、2年も海水に漬かった農地が生産力を回復するのは相当困難だ」と落胆する。
ここはかつて塩田で、干拓後にも塩害で苦しんだそうです。
海抜0メートルだから、地下から上がってくる海水のために塩害になって、作物が生育しにくいのです。
地盤沈下してしまったから、そうした塩害を防ぐことができるのかどうか、大きな不安でしょう。
こうしてまだまだ復旧に手つかずのところが残されているのですが、復旧のあり方についても意見が分かれているようです。
メガソーラーの北にあった「かんぽの宿松島」を車窓から。
もちろん被災して今は営業を停止しています。
東松島市でも野蒜小学校の体育館に避難した市民20名が亡くなられた。
メガソーラーの北を走る仙石線、その北に野蒜小学校がありました。写真の「A」のところ。
指定避難所だったその小学校にも津波が襲い、体育館で市民が命を落としました。
震災後に米国CBSがその様子をレポートしたそうです。
Megさんのブログ:http://ameblo.jp/mhyatt/entry-10841364007.html
そういう記憶を忘れないでいたい。
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