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下鴨神社 父神と娘神、そして母神 [ 神社仏閣]

上賀茂神社に行ってから下鴨神社にやってきました。

出町柳の駅から向かうと参道があります。

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社号標にある正式名称は「賀茂御祖(かもみおや)神社」。
加茂氏の祖先という名ですね。
上賀茂神社と同じく、こちらも山城国一之宮
なお以下の記述の多くは「玄松子の記録」さんを参考にしています。
 ⇒玄松子の記録「賀茂御祖神社」:http://www.genbu.net/data/yamasiro/simogamo_body.htm

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境内の地図があります。

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下鴨神社HPにある地図です。

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祭神は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)。
上賀茂神社の祭神・加茂別雷神(かもわけいかづちのみこと)の母が玉依媛命、さらにその父(祖父)が賀茂建角身命です。
では加茂別雷神の父は?
それは上賀茂神社の記事で書いたように松尾大社の祭神・大山咋神(おおやまくいのかみ)です。

下鴨神社祭神の2神について、簡単な説明をば。 

賀茂氏の祖神・賀茂建角身命は八咫烏の化身とされています。
八咫烏は、神武天皇の東征神話の中で先導神としてあらわれてくる烏(からす)。
神武の東征を先導した神ということです。 

玉依姫命」の玉依は霊依のことで、タマは神霊、ヨリは人間に憑る(よる=つく)こと。
ということで、神霊が憑依する女、すなわち巫女のこと。
だから人の名前ではないです。
加茂別雷神を生んだので玉依媛命ということでしょう。

上賀茂神社が先に出来て、天平年間(729~748年)に上賀茂神社から分置されたと言われています。
なので平安遷都のときには、上下の賀茂社がありました。 

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一の鳥居の両側には住宅があります。

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参道の両側は林になっています。

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参道の西には広い道。ここは馬場だそうです。
そしてこの境内一帯を「糺(ただす)の森」というそうです。
何をただすのか?というその命名については、後ほど。

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途中に摂社の河合神社があります。

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河合神社の祭神は玉依媛命
先に書いたように、「玉依姫命」とは巫女のことです。

下鴨神社の祭神と同名ですけど、それとは異なった神様で海神(わたつみ)の娘です。
しかもその神は神武天皇の母ということになっています。

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解説によると、河合神社は式内社・鴨川合坐小社宅神社(かものかわいにますおこそやけのかみのかしろ)に比定される神社。

鴨川合とは、賀茂川と高野川が合流するところという意味。
そこは只洲(ただす)と呼ばれるところだったので、かつては「河合社」と書いて「タダスノヤシロ」と訓むのが慣例だったらしい。
さっきの「糺の森」の名の由来は、これでしょう。

奈良本辰也「京都百話」に、只洲は蓼洲(たです)から生じたとあるとか。
後に三井社のところで出てくる蓼倉郷と関連する地名でしょう。

「社宅(こそやけ)」とは本宮・賀茂御祖神社と同じ祭神ということらしい。
だとすると、祭神が神武天皇の母の玉依姫命だというのは変ですよ。
この謎解きは少しずつやっていきます。

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河合神社神門。

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河合神社境内。

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奥に本殿

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立派な本殿です。

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献上されていたコレが気になりました。
ご存知、金宮焼酎です。
キンミヤ焼酎のメーカー宮崎本店は、1846年創業で三重県四日市に本社があります。
河合神社とどういう関係があるのかは、全くわかりません・・・。

境内にはこんなものが・・・

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社殿の脇にある方丈

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鴨長明「方丈」を復元したものだそうです。

鴨長明と言えば「方丈記

行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。


長明が各地を移動しながら栖(すみか)としたのが、この方丈だそうです。
1丈(10尺=約3m)四方なので「方丈」と呼ばれ、しかも組み立て式で、移動できるそうです。(へぇー!)
9尺四方の四畳半より少し広い大きさです。
その方丈で書いたのが「方丈記」ということなんですね。(へぇー!)

鴨長明は、下鴨神社の禰宜の次男でした。
wikipediaによると、1175年下鴨神社の禰宜の座を鴨祐兼と争うが敗れ、その後、歌人として活躍する。
1204年に、河合神社の禰宜の職に欠員が生じたため、長明は就任を望み後鳥羽院から推挙の内意を得たが、下鴨神社禰宜の鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したため、長明の希望は叶わず、神職としての出世の道を閉ざされる。
そして後鳥羽院のとりなしにも関わらず長明は出家したそうです。

なぁるほど、そんなこともあって、ここに方丈があるんでしょうか?
ともあれ、河合神社は長明が禰宜を争うほどの大きな神社だったということです。 

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方丈の中には囲炉裏もあります。

さて、河合神社本殿の左側に神社が2つ

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2つの神社。 

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左の小さい方は、任部社(とうべのやしろ)。
古名は専女社(とうめのやしろ)で、そのことは後程説明します。

それが「小烏社」と安元元年(正しくは1175年)と合祀された。
小烏社は参道と河合神社の間にある瀬見の小川にかかっている紅葉橋のたもとにあったそうです。

小烏社の祭神が八咫烏命(やたがらすのみこと)です。
八咫烏は、神武天皇の東征神話の中で先導神としてあらわれてくる烏(からす)。
下鴨神社の祭神・賀茂建角身命の化身とされていて、だから下鴨神社と同じ祭神ということになります。

・・・ということだと、本来の河合神社は小烏社ではないでしょうか?
しかしなぜ?
それはまたのちほど・・・。

ところで・・・
1931年に八咫烏が日本サッカー協会のシンボルマークとなったから、サッカー必勝の守護神となったそうです。(*^^*)

日本サッカー協会HP:http://www.jfa.jp/about_jfa/organization/

このカラス、足が3本あるのが特徴です。 

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右の大きい社は貴布禰(きふね)神社
祭神は高龗神(たかおかみのかみ)で、雨を司る龍神。

延喜式に「山城国愛宕郡 貴布禰神社」とある神社社は、ずっと北の鞍馬貴船にある「貴船神社」のこと。
その神社の本来の社殿である奥宮には、高龗神に加えて海神の娘の玉依姫命が祀られていたらしい。
その摂社がここにあるというわけ。
ここでおや?と思います。
海神の娘の玉依姫命は、河合神社の祭神です。

実は、こんな歴史があります。
1046年に貴船神社の社殿が洪水で流失し、1055年に現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。
その社殿再建が契機となって、長らく賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされたらしく、江戸時代以降、それを不服として訴えが続けられ、明治以降になってようやく独立の神社となったそうです。

1161年の「神殿屋舎等之事」に河合神社境内に貴布禰神社あったことが記録されている、と立札に書いてあります。

その時代には、上賀茂神社の摂社になっていたわけで、河合神社の境内にも摂社があったのでしょう。 

そうだとするとその祭神は、高龗神だけでなく、海神の娘の玉依姫命も祀られていたのではないでしょうか?
その玉依姫命が、いつのまにか河合神社の祭神になってしまったのでは?
おかげで本来の祭神・八咫烏神が小烏社に祀られたのでは?
はてさて? 

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河合神社の途中にさらに神社。
三井神社
祭神は、下鴨神社の玉依媛命、賀茂建角身命とその妻・伊賀古夜日売命
ただし「風土記」山城国逸文にある「蓼倉里三身社」とは違う、だって・・・。
その三井社は、また後で見ることになります。

古い時代に下鴨神社は山城国の愛宕(おたぎ)郷、葛野(かづぬ)郷を領有していて、そこには下鴨神社の分霊社があった。
と、ありますが、愛宕郷・葛野郷ではなく、もっと広い愛宕郡・葛野郡を賀茂氏が領有していました。
このことは伊賀古夜日売命のこととともに、最後に書きます。

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3つの神社を1つにまとめてある。 

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末社の六社。
もとは河合神社の垣内に別個に祀られていたものを江戸時代に一棟にまとめたもの。

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左から、由木社(少彦名命)、印社(霊璽)、竈社(奥津日子神 奥津比賣神)、稲荷社(宇迦之御魂神)、衢社(八衢毘古神 八衢比賣神)、諏訪社(建御名方神)。アパートみたい。 

さて、下鴨神社へ向かいましょう。
まだ本体に行きついていないんですから・・・。

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さて、表参道から南口鳥居

下鴨神社でも式年遷宮が行われています。
21年ごとに行われるもので、本来は建て替えるのですが、現在は傷んだところの修復のみ行われています。
第34回目の式年遷宮が行われていて、2015年4月に下鴨神社で修理が完成した本殿に神様が遷る正遷宮が行われました
 
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さらに参道を行くと楼門。 

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立派な楼門

境内に入ると・・・

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舞殿
賀茂祭(葵祭)のときに勅使が御祭文を奏上するそうです。

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橋殿

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中門

中へ入ると・・・

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弊殿の前に7つの祠がコの字に並んでいる。
7つの祠で、十二支の守護神となっているのが面白い。

正面2つは一言社:左がうま歳生守護の顕国魂神、右がみ歳生とひつじ歳生守護の大国魂神
右手の2つは二言社:奥がうし歳生とゐ歳生守護の大物主神、手前がね歳生守護の大国主神
左手の3つは三言社:手前がたつ歳生とさる歳生守護の八千矛神、中がとら歳生といぬ歳生守護の大己貴神、奥がう歳生ととり歳生守護の志固男神

それぞれ神名が違う7つの神様
ところが!
これら7つは、実はみんな大国主神の別名なんです。
要するに、すべて大国主神を祀っているってわけ。
なんと、ややこしいことをしてくれます。(^0^)

それはそうと、なんでここで突然に大国主命なんでしょうか?
あとで出雲系との融合云々について書きますけど、それとは無関係で、もっと後代のことでしょう。

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申と辰の祠はこんな感じ。

さて、いよいよ下鴨神社の本体の話です。

 

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幣殿
この奥に二棟の本殿があります。
向かって左側の西殿に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、右側の東殿に玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られています。

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幣殿の右側。
その奥に・・・

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言社権地
式年遷宮のときに社殿造替の権地になって、仮殿が設けられるそうです。
この後ろに仮殿を建てて、2神の神体と神宝を一時移すようです。 
こちら側が、東殿の玉依媛命の権地です。

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幣殿の左側。
この奥に西殿の賀茂建角身命の権地があるのでしょう。

本殿に向かって左にもこんな神社があります。

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ここにも摂社・三井神社があります。さっきのとは違って、しっかり大きい。
「風土記」山城国逸文の「蓼倉里三身社」、「延喜式」の「三井ノ神社」が、これだそうです。
三神とはやはり、賀茂建角身命、玉依日売命、伊賀古夜日売命です。

三井社の拝殿、本殿、境内社があります。
本殿は、西殿が玉依日売命、中殿が賀茂建角身命、東殿が伊賀古夜日売命を祀っている。
西殿の横に諏訪社、小杜社、白鬚社の末社が並んでいます。

愛宕郡蓼倉郷は下鴨神社があるあたりのこと。
その三井神社には、下鴨神社の祭神である賀茂建角身命、娘の玉依日売命に加えて、賀茂建角身命の妻の伊賀古夜日売命とが祀られていたということです。

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立派な拝殿。

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その奥、正面に3つの神社があります。
そして左手に3社。

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細殿御所。

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天皇が行幸したときの安在所。

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きちんと参拝する女性がいます。

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御手洗川の近くにある井上社(御手洗社)
元は唐崎社といい、出町柳駅付近に鎮座していたらしいです。

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女性の姿が素敵ですが、旅先で知り合った彼女。
せっかくなので記念に写真に収めました。(*´▽`*)

ってのは、うそ。

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賀茂斎院御所旧跡。
810年以降、下鴨神社には斎院の制があったそうです。
天皇の皇女が斎王となってここにいたそうです。

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そしてその賀茂斎院御所の守護神の愛宕社(おたぎのやしろ)と斎院内の忌子女(女性神官)の庁屋の守護神の稲荷社
上賀茂神社下鴨神社があるところはかつての愛宕(おたぎ)郡です。だから愛宕社なのでしょう。

古名・専女社(とうめのやしろ)の「専女(とうめ)」は老女のことで、老女の社か?
と思ったりしたらいかん。
稲女(とうめ)」で食物を司る神のこと。
元々は神様へのお供え物をつくる庁屋の守護神として保食神を祀っていたけれど、それが宇迦之御魂神と同一視されるようになって、稲荷社と呼ばれるようになったんでしょう。

宇迦之御魂神は、伏見稲荷の主祭神で、京都一帯の豪族であった渡来系の秦氏の氏神です。
下鴨神社を祀った賀茂氏は秦氏と関係が深いですけど、この稲荷社はそれとは関係ない。 

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何かと思ったら「さざれ石」。

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しめ縄が張られた「さざれ石」。

「さざれ石」のことは、鹿島神宮の記事のときに触れましたが・・・。
「君が代」に「さざれ石の巌(いわお)となりて」とて出てくる「さざれ石」
でもそれがいったいどういう意味なのか?

「さざれ石」は「細石」と書いて、小さな石のこと。
その「さざれ石」が大きな巌になるって、どういう意味か?
石が小さく砕けるんじゃなくて、大きくなる?

「さざれ石」は、小石の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めて、1つの大きな岩の塊になっています。
石灰石が雨水等で溶けて、それが小石を固めているんです。
小石をコンクリートで固めたみたいなものです。
これを見て、小石が年を経て岩に成長したと思ったわけ。
まぁ、全く間違っているわけではないですが・・・

さて、今回の記事は、出町柳駅から北上して表参道から入ったみたいに書いてきたんですけど、ホントは違うんです。
上賀茂神社からバスで移動してきて、西参道から入ったんです。 

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西参道の入り口。

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下鴨神社の説明板がありました。
上賀茂神社から下鴨神社が分置されたことについては書いてありません。

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そして西参道の鳥居。

実際にはここからスタートして、この記事にしたのとは、ほとんど逆回りして、出町柳へと向かいました。


 

下鴨神社の祭神は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)。
上賀茂神社の祭神・加茂別雷神の母が玉依媛命で、父は松尾大社の祭神・大山咋神でしたね。
そして松尾大社は秦氏の神社で、秦氏と賀茂氏は緊密な関係だったと上賀茂神社のところで書きました。

で、玉依媛命のことですが、父が下鴨神社の祭神・賀茂建角身命です。
そして母は、三井社のもう1つの祭神・伊賀古夜日売命です。

その伊賀古夜日売命丹波国神野の国神だそうです。
丹波の神野神社は、現在の亀岡市宮川神社で、伊賀古夜日売命が祀られています。

丹波国は出雲族の地で、伊賀古夜日売命は出雲系の神です。
賀茂建角身命出雲系の神と婚姻関係にあった。
ということは賀茂氏と出雲族とに密接な関係があったということです。

面白いことに、下鴨神社の鴨川対岸あたりに、かつての愛宕郷出雲郷があります。
ということは、丹波からさらにここに出雲系のひとたちがいた。
賀茂氏がここに来る前に出雲系の人たちがいて、そこと融合したんでしょう。
賀茂建角身命と出雲系神・伊賀古夜日売命との婚姻関係はそういうことを表しているようです。

賀茂氏出自は・・・渡来人でしょうけど、どこからどうなったのか?
大和の三輪氏に属し、事代主を祀るのが賀茂氏と思っていました。
三宅島の神社のことで、三島神社と賀茂氏の関係について記事にしましたもん。
 ⇒三宅島の神社:http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2012-07-02

しかし賀茂氏には2つあるらしい。
1つは、大和国葛城(かずらき)の賀茂氏。
大国主命の子孫大田田根子(おおたたねこ)の後裔の大賀茂都美(おおかもつみ)を祖とし、三輪氏と同族とされている。
これは出雲と関係しますね。

もう1つは、山城国葛野(かどの)の賀茂氏で、八咫烏を祖とする葛野主殿県主(かどのとのもりあがたぬし)。
これが今回とりあげている賀茂氏。
その賀茂氏が出雲族と関係していたというわけです。


 
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