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震災遺構:陸前高田市立気仙中学校旧校舎 [3.11以後]

今年の3月のことです。
息子と一緒に東日本大震災の被災地をツアーしました。
とんちゃんは、弊ブログでもときどき記事にしたように、被災地に立ち寄っていました。
でも息子はテレビでの情報しか知らない。
その目で一度は見た方がいいよ、というので親子というか男2人旅。

そのときの記録をしばらくアップします。
もちろん「食」もあります。


まず、昨日の記事にあった宮城県の一番北にある気仙沼市に行きました。
そして北上してお隣、岩手県最南端の陸前高田市へ向かいました。


陸前高田市は山が海に迫っている地形のため、海岸近くの狭い平地に街がつくられてきました。そこに東日本大震災の大津波が押し寄せてきたため甚大は被害を被りました。


赤い部分が津波の浸水地域。
陸前高田市の市街地全体が浸水しています。

青い部分が家屋が流されたところ。
青の真ん中あたりの抜けている部分は、浸水した農地です。

左にある気仙川河口近くへ向かいました。

takada1
気仙川河口 近くに、陸前高田市立気仙中学校があります。

P1180727
震災遺構となっている「気仙中学校」。
鉄筋コンクリート3階建ての建物自体に大きな損傷はありません。
けれども、中はすっかり破壊されています。

敷地内、建物内部は立入禁止なので、外から写真を撮ってます。

3階の屋上を見ると・・・

P1180730
看板が取り付けられています。

P1180729
津波到達点は海抜14.2m
学校の3階屋上まで津波が押し寄せてきました。
だから校舎はすべて津波に飲み込まれてしまった。

 

現在の旧気仙中学校の周囲の様子です。

 

心配になるのは、生徒はいったいどうなったか、ってこと。

 

震災当時に学校にいた生徒たちは、全員が避難して、犠牲者が出なかったんです。
日ごろの訓練の成果ですね。

学校の西側には小高い丘があって、生徒たちは全員、その小山に避難したのです。
いま、その小山はほとんど崩されて、市街地が建設されています。


しかしその避難経路は、事前に用意されていた計画どおりではなかったそうです。
避難のあり方を真摯に検討した校長の判断のおかげで、生徒全員の命が守られたそうです。

「なぜ、こんな海のそばに学校が」
陸前高田市気仙中の越恵理子校長(56)は2009年4月に赴任し、窓越しの風景に違和感を覚えた。
堤防を挟み、校庭の向こう側に広田湾の白波が見えた。
内陸部の奥州市出身で津波には詳しくない。
知識が少なかったからこそ、素朴な不安から避難経路の見直しを始めた。
津波を想定した避難場所は、学校近くの駐車場だった。
3階建て校舎の高さとほとんど変わらず、安全には思えなかった。
周辺を調べると、高台に通じる小道があった。
急勾配な道を通り民家の脇を抜けると、かなり高い場所まで登れた。
防災訓練に関連し、1960年のチリ地震津波を経験した地域住民の菅野昌雄さん(78)を講師に招いた。
「津波は気仙川の水位が下がった後、川沿いにやってくる」
「校舎の屋上は駄目だ。さらに高い所に逃げられる場所に避難しないと」。
どの話も示唆に富んでいた。

3月11日、生徒86人と教職員はいったん駐車場に退避した。
しかし気仙川の川底が見えたため、5分と待たずに、小道から高台を目指した
間もなく、川をさかのぼった津波が堤防を越えたのが見えた。その後、校舎も駐車場も濁流の下に沈んだ。
越校長は「先入観を持たずに一つ一つの課題を見直せた」と話すとともに「聞いていた通りになった」と住民の教えに感謝する。
引用:相川哲弥ブログ「学校、津波避難の教訓」:http://blog.goo.ne.jp/jp280/e/172abdc963fa8ce82bfaeefc5548bd13
 原資料は、河北新報「焦点/学校、津波避難の教訓(5完)伝承/危機意識、地域と共有」(2011年12月19日月曜日)


堀校長は、独自の判断で次のように避難場所を4か所も替えたそうです。
第一避難所(校庭を挟んで200メートル程先の旧博物館駐車場)→さらに高い位置→さらに上の山肌→その上のスギ杉林
 ⇒岩手県教育研究発表会(2012年2月13~14日開催)での越校長の報告
  :http://www1.iwate-ed.jp/kenkyu/happyoukai/h23/houkoku01/t1_02.pdf


 
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