SSブログ
 

鎌倉・江の島へ夫婦旅行(3) 鎌倉殿の13人ゆかりの地めぐり、CGの再現もある [旅行先]

05

 

鎌倉・江の島へ1泊の夫婦旅行をしたときのことを連載中。
今日の記事は1日目の午後、鎌倉殿の13人・ゆかりの地の観光です。

鎌倉旅行のコース

map-1
カミサンに従って進んだコースは以下のようなもの。

午前:鎌倉駅→鎌倉宮→覚園寺
昼食:手打ち蕎麦
午後:永福寺跡→源頼朝墓→北条義時墓・法華堂跡→大蔵幕府跡の碑→鶴岡八幡宮

意外な発見もありました。

永福寺跡

永福寺(ようふくじ)は 1192年に源頼朝が建てた寺。
1189年の奥州合戦で亡くなった弟の源義経や奥州平泉の藤原泰衡らを含む数万の霊を供養するために建てたもの。
頼朝軍の霊を供養するためだけでなく、打ち負かした義経や奥州藤原氏の怨霊を鎮魂するためのものだったのでしょう。

P1000773
その永福寺跡が発掘、整備されています。   
本堂(二階堂)、その両側に阿弥陀堂薬師堂が並び、前面にはが作られています。

しかもCGでの復元も行われてる!

05
鎌倉市と湘南工科大学との協働で制作されたものだそうです。⇒CGにより復元された永福寺:http://www.bukenokoto-kamakura.com/yofuku-ji/

現在、実際に目にすることができるのは、以下のようなものです。

P1000778

P1000779

P1000776
阿弥陀堂跡

P1000780
木製基壇礎石が復元されています。

P1000775
寺の正面にあったも復元されています。

P1000796
たまたまいらっしゃった和服姿のお二人。女性は日本髪を結っていました。

 

源頼朝の墓

源頼朝が葬られた法華堂の跡です。

P1000797
頼朝の墓とは、頼朝が葬られた法華堂の跡のこと。

yoritomo
源頼朝(大泉洋)(NHKより)

P1000802
長い石段を上った先に平場があり、そこに墓・法華堂がありました。

P1000798
法華堂は消失し、石造りの層塔が残っています。

P1000799
墓だった法華堂が消失した後で、石の墓塔が建てられ、1779年に島津重豪(しげひで)が頼朝墓の整備を行いました。

この墓塔は誰が建てたのか?
鶴岡二十御坊の1つ、林東坊(荘厳院)の住職が勝長寿院(源頼朝が父・義朝の菩提を弔うために建立した寺)から移したもの、とみられています。

P1000800
この碑文に島津重豪による整備のことが記されています。

P1000801
これは碑の脇。

なぜ、島津重豪が頼朝の墓を整備したのか。
石碑には「薩摩中将源重豪」と書いてあります。
薩摩島津氏の祖・島津忠久は、島津氏の系図では頼朝の子とされている。そこで島津重豪は、島津家を源氏の末裔と権威づけるために、頼朝の墓を整備し、近くに島津忠久の墓を建立したそうです。


P1000803
頼朝の墓への石段の下に白旗神社があります。
その説明はさっきのものとは違って、ここに法華堂があったと書いてます。

頼朝が石橋山の合戦で髪の中に納めて戦った小さな観音像を安置した持仏堂があり、そこに頼朝が葬られて、法華堂となった。明治維新後の廃仏毀釈で法華堂を白旗神社に改めた。
小さな観音像とは頼朝の念持仏である高さ2寸で銀製の正観音菩薩像。欧州征伐の際に、それを本尊とする祈願所を設けました。そこに頼朝が葬られた。


では、法華堂は、この石段の下のあったのか、先の高所にあったのか?
かつては、先の高所の石塔が頼朝の墓、ここが法華堂跡とされていました。
しかし赤星直忠氏の研究で、石塔の位置が法華堂跡であることがわかったそうです。
参考資料⇒国立情報学研究所 文化遺産オンライン「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」

今は白旗神社となっている場所にあった法華堂は、江戸時代に建てられたようです。

 

法華堂跡・北条義時墓

P1000817
北条義時法華堂跡へ。
大江広元の墓もあるのね。
そして島津忠久の墓もあります。

P1000818
また石段を上がります。(*´ο`*)=3 

P1000804
北条義時の法華堂(墳墓堂)の跡。

yoshitoki
北条義時(小栗旬)(NHKより)

P1000808
ここも発掘調査がされました。

P1000806
義時の法華堂のCGもある!⇒湘南工科大学「長澤・井上研究室が北条義時の法華堂ARを開発」

unnamed
こんな姿だったみたい。

P1000807
今あるのは、柱の位置だけが記されています。

法華堂の後ろにはまたまた石段が、しかも2つもあります。

P1000813
左側の石段を上ると、大江広元毛利季光の墓があります。

ooe.jpg
大江広元は鎌倉殿の13人に頻繁に出ていました。政所別当(長官)を務めた人です。

毛利季光はその四男。三浦泰村の妹を妻とし、1247年の宝治合戦で三浦方につき、三浦一族とともに自刃しました。しかし季光の子・経光は宝治合戦に関与せず、その子孫が後に長州藩の毛利氏になります。
だから大江広元は毛利氏の祖となるわけ。それで1823年、長州藩が大江広元の墓を造りました。毛利季光の墓は、そのときに鶴岡八幡宮の西、鶯谷に造られましたが、1921年にここに移設されたそうです。


また右側の石段を上ると、島津忠光の墓があります。

先述のように、薩摩島津氏の祖・島津忠久は、島津氏の系図では頼朝の子とされています。それで、島津重豪は、島津家を源氏の末裔と権威づけるために、島津忠久の墓を建立し、頼朝の墓を整備したようです。


しかしもう石段は疲れるので、パスしました。(*´ο`*)=3 

 

三浦一族の供養堂

P1000814
法華堂の近くに、三浦氏が供養されている「やぐら」がありました。

miura.jpg
三浦義村(山本耕史)(NHKより)

北条義時の死後、1247年に宝治合戦が起こります。
三浦義村の子・三浦泰村が第5代執権北条時頼に攻められ、三浦一族は先に紹介した頼朝の法華堂に籠って自刀したと伝えられています。

その一族を供養している横穴式の墳墓(やぐら)です。

P1000815
なぜここに、このような形で供養塔があるのか、よくわかりません。

 

大蔵幕府跡

P1000820
「大蔵幕府跡」の石碑。
清泉小学校の側に突如あります。

1180年に、ここ大蔵に御所があり、そこで政治が行われたので「大蔵幕府」と呼ばれています。
北条政子の死後、1225年に三代執権北条泰時が宇都宮辻子(現在、宇都宮稲荷神社があるところ)に幕府移すまで、ここに幕府がありました。

P1000821
小学生が作成した解説があります。

 

畠山重忠邸跡

P1000827
鶴岡八幡宮の東の鳥居の外に畠山重忠邸跡の石碑があります。

hatakeyama
畠山重忠(中川大志)(NHKより)

後ろを歩いていたご婦人たちが、畠山って素敵だったわね、と話している。
かつては気づかれなかったこの石碑が中川大志さんのおかげで、有名になったね。


 
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:グルメ・料理

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント