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対馬観光(1) 内良海岸の絶景と万松院 [旅行先]

対馬を観光しました。
事前に下調べしていないから、行き当たりばったりです。

まずお昼を食べに、空港がある美津島町から厳原町へ向かいます。
その途中、国道382号を南下して、浪人坂のトンネルを出て坂を下るところに、展望スポットがあります。

ナイラ(内良)海水浴場を見下ろす場所ですけど、そこから綺麗な紺碧の海に浮かぶ島が見えます。左から、神島、上根緒島、下根緒島です。とても美しいです。
画像を別画面で表示すると、右端の下根緒島まで見えます。

 

厳原町へ行って昼ご飯。
「志まもと」で「ろくべえ」を食べました(その様子は「志まもとのろくべえ」をどうぞ)。

それから厳原町を観光。
宗家居城であった金石城跡の門だけ見ました。
中の庭園は観なかったけど、観とけば良かったかなって思います。

1528(享禄元)年に、宗盛治の兵乱によって今屋敷にあった「池の館」という屋敷が炎上し、宗将盛(盛賢)が屋形を金石に移した。その後、宗義真(そう・よしざね)が1665(寛文5)年から「金石屋形」を改修し、1669(寛文9)年に櫓門を築いて「城」としての形態を整えて「金石城」と呼ばれるそうになった。

 

金石城の奥にある万松院を拝観しました。ここは対馬藩時代の宗氏の菩提寺です。

宗家20代の宗義成が、父・義智の菩提を弔うために1615(元和元)年に金石館の西の峰に「松音寺」を建立。1622(元和8)年に宗義智の法号を取って「万松院」に改名。1647(正保4)年)に金石山麓を拓いて現在地に移る。

宗義智は、信長時代から家康時代の当主です。
秀吉の朝鮮出兵時には、朝鮮との交渉役(どんな要求だったのかねぇ)をさせられ、結局は朝鮮に出兵し、対馬と日本の関係は悪化します。
家康の時代になると今度は国交再開の交渉役をします。

対馬は、弥生時代から朝鮮半島から日本への渡来人の移動の経路で、日本国家ができた後も、なんたって九州よりも朝鮮半島の方が近いのだから、朝鮮との関係は濃厚だったはず。それが秀吉の愚行のおかげで戦争、その後に国交回復交渉など、義智は対馬交渉の苦労を背負わされたわけです。

そんな義智を義成のために「松音寺」を建立したのでしょう。
その最初の場所は、きっと墓のある山の上なんだと思います。その後、現在の山の麓に寺を移したようです。

この寺には、朝鮮国王から贈られたという「三具足」があります。
いつ贈られたのかわからなかったのですが、ネットの情報では、義智の厚誼を重んじて歴代藩主の弔礼に寄贈されたとのことです。
義智死後の朝鮮通信使の渡来時に寄贈されたのでしょうから、1617年かもしれません。

山門のわきから、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる123段の自然石の大石段があります。それを登りました。その先に、歴代の藩主と一族の墓が並んでいます。

杉の大樹なんかがあって、私はこっちの方に歴史を感じてしまいました。

これらは近世の歴史にかかわることだけど、うちに帰ってから改めて少し調べたことをもとに書いています。古くから、って弥生時代からの歴史があるところだから、もっと準備してから観光するべきだったなぁ、と後に立たない後悔をしています。

 


 
タグ:長崎県
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