SSブログ
 

ガイド付きで史跡とヒカリゴケ!見学 ポー川史跡自然公園(その2) [旅行先]

北海道の道東、知床へ旅行。
標津町ではサーモン科学館へ行くはずが、ポー川史跡自然公園で、思いもかけずにガイド付きで湿原と史跡を見学しました。

前回は標津湿原についてアップしたので、ここでは史跡をアップします。

公園のHPに遺跡群の地図があります。
「標津遺跡群」は、国の史跡に指定されている伊茶仁カリカリウス遺跡、三本木遺跡、古道遺跡の3つの遺跡と、史跡指定の申請中の伊茶仁川沿いの国指定級の遺跡群から成っています。

湿原に行く前に、竪穴住居の復元模型があります。

1つは縄文時代の円形の縦穴住居です。

もう1つは、擦文時代の方形の竪穴住居の復元です。中には人が入れます。

ここの「標津遺跡群」は、古いもので縄文時代早期(約8,000年前)から新しいもので擦文時代(約1,000年前)の竪穴住居跡群や、アイヌ文化時代(約800~200年前)のチャシ跡などがあるということです。

北海道の文化は、本州と違って「擦文時代」とか「アイヌ文化時代」という時代があります。

本州以南では縄文時代の後には朝鮮半島から渡来してきた弥生人が築いた弥生時代になります。
しかし北海道にはその弥生時代がなく縄文文化が続き、しかし青銅や鉄は伝わったので(弥生人が渡来したんでしょう)、これを続縄文時代と言います。
その後、本州の飛鳥時代に、北海道では擦文時代があります。土器の表面に縄目でなく、木のへらで擦ったと考えられる刷毛目が付いているので「擦文」と呼ばれるわけです。この土器の表面調整技法は本州の土師器の影響と考えられています。
その擦文時代は本州の平安時代まで続き、その後北海道ではアイヌ文化時代となります。

ところが道東では、さらに違った文化が存在しました。
北海道全体では続縄文文化が定着していた5世紀ごろ、オホーツク海沿岸ではそれとまったく別の「オホーツク文化」の時代が出現します。それは擦文文化が終わる13 世紀ころまで約800年間続き、突然消えてしまいます。少数民族のニヴフ(ギリヤークとも呼ぶ)によって樺太南部ではじまったとされますが、それが突然消滅した理由は謎です。
このオホーツク文化は、擦文文化の影響を受け、両方の文化が融合して9 世紀からは「トビニタイ文化」になっていきます。

さて見学の話にもどりましょう。
標津湿原の木道を歩いていくと、林があります。自転車を降りて階段を上って丘にあがると、遺跡があります。

トビニタイ文化時代の竪穴住居の跡がいくつもあります。

木枠は復元されたものですけど、この五角形がオホーツク文化の特徴らしいです。

竪穴住居の復元模型もあります。

これはオホーツク文化時代のものです。
発掘された遺跡は柱の位置や材料しかわからず、形は想像によるものです。

内部には入れませんが、炉などが復元されています。

この復元模型で驚くことが1つあります。

なんとここにヒカリゴケが生えているんです。

炉のところにヒカリゴケがあります。
これは羅臼のマッカウス洞窟よりもずっとハッキリ見えます。
これは驚きでした。

この草の凹み。これは発掘されていない竪穴住居の跡なんですって。
竪穴住居跡が土に埋まらずに、林の中にこうしてたくさん残っているんだそうです。
こうした竪穴住居跡の総数は、なんと4400もあるんだそうです。

見学の最後に、ガイドさんに記念写真を撮ってもらいました。
私、腹出ているなぁ・・。

自転車のところに戻ろうとすると、でかいフキがありました。北海道に生えているアキタブキでしょう。子どもの身長ほどもあります。


 
タグ:北海道
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0