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香椎宮(その1)@福岡市 [ 神社仏閣]

9月に福岡に行ったときのこと。

西鉄宮地岳線で香椎宮前駅へ向かいます。

参道入り口に立つ石碑。ここから近いのかと思ったら・・

長い香椎宮への参道が続く。車道の両側にクスノキが連なる。

香椎宮入り口の石鳥居。やっと着きました。

祭神は、仲哀天皇と神功皇后の二座となっています。

社伝では仲哀天皇9年(200年)に、神功皇后と仲哀天皇は南九州の熊襲政権と戦うためにここ橿日宮(かしひのみや)に来ていたが、仲哀天皇が急逝したため、神功皇后がその地に祠を建て天皇の神霊を祀ったのが起源とされる。
その後、奈良時代になってからの養老7年(723年)、神功皇后の神託で、朝廷が仲哀天皇神祠のそばに新に社殿を造営し、724年に竣工され、皇后の神霊を鎮祭した。この2つの廟をもって香椎廟としている。

とはいえ神功皇后も仲哀天皇もともに実在が否定されている。
そして仲哀天皇の死後、神功皇后がここから「三韓征伐」に向かったなどは「日本書紀」の全くの作り話。
720年に完成した「日本書紀」に、神功皇后、仲哀天皇と橿日宮のことが書かれているのですが、社殿が出来たのは先述のようにその後の724年。
社殿があって書記に書かれたんじゃなくて、その逆、書記に書かれたんで社殿が出来た。
そして神功皇后、仲哀天皇が祀られた。これが事実でしょう。

史実では、660年、唐・新羅連合軍が百済を滅ぼした。
百済遺臣の鬼室福信はヤマト朝廷に使いを送る。
661年斉明天皇(女帝)は百済救援のために遠征りを図り、その新羅との戦いが663年の白村江の戦いです。
結果は完敗。
皇太子の中大兄(後の天智天皇)は唐と新羅の侵攻に備えて対馬・壱岐への防人や西日本の防衛施設を築ききます。

けれども斉明天皇自身は、遠征の軍が発する前に筑紫で亡くなっています。
これが神功皇后の「三韓征伐」のモデルですし、仲哀天皇の死とも関係するのでしょう。

ここが熊襲との戦いの拠点であったということですけど、この熊襲というのも伝説上の存在らしい。
この時期、九州南部の隼人がヤマト朝廷に服属していたけれど、700年代に入って隼人の反乱があります。
これが熊襲討伐として描かれたのでしょう。

しかしこうして神功皇后、仲哀天皇のことが後世(日本書紀)の作り話だとすると、本来、祀られていたのはいったい誰だったのでしょう?
いやいや、そうじゃないんです。

ここは、古事記や日本書紀にも出てきます。
古事記では「訶志比宮」(かしひのみや)、日本書紀では「儺(ナ)の県(あがた)の橿日宮(かしひのみや)」としている。
その時点ですでに「宮」とあるわけです。
これは神社のことではなく「宮殿」のこと。

そして日本書紀では「儺(ナ)の県(あがた)」とあります。
この「ナ」というのは、魏志倭人伝(魏書東夷伝倭人の条)に出てくる、かつての「奴国」のこと。
現在の福岡市周にあった国で、その中心が橿日宮だったわけです。

境内から本殿に向かうと鳥居があります。奥に壮大な楼門があるのですけど、どういうわけか写真に撮ってないです。

鳥居の脇に「皇族下乗」の石柱。
天平9年(737年)以来、香椎宮への勅使参向は行われ、現在は10年に一度行われている。

頭が異様に小さい狛犬 ゴジラみたいだ。

2つで1対ですね。

本殿、幣殿に入る石段の前に神木の綾杉がある。綾杉の枝が曲がっています。

熊襲との戦いのとき、神功皇后が200年に植えたことになっています。
もちろんこれも後世作られたお話。

中門。社殿前の御門で、左右に廻廊を廻らしたた欅造の朱塗の御門。

中門から拝殿と幣殿。
広辞苑によると、拝殿とは「礼拝を行うために本殿の前に設けた神殿の前段」、幣殿とは「幣帛(へいはく)を奉奠(ほうてん)する社殿」とある。

黒っぽいのが社殿、その後ろが本殿。


 
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