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光州市観光:金大中コンベンションセンターと国立5.18民主墓地 [旅行先]

韓国の光州市に行ったときのこと。
市内を2カ所観光しました。

1つは、金大中コンベンションセンター。

宿泊先ホテルとは道路を隔てたところにあるんです。

正面は北を向いています。

赤い円弧のデザインが何を意味するかはわかんない。

いろいろな催し物が開催されているようです。

ところで金大中(キムテジュン)を知らない、って人もいるだろうなぁ。
1998年~2003年に韓国の第15代大統領になった人ですが・・・。

朴正煕の独裁時代の1971年、新民党の大統領候補として出馬しましたが、朴に敗れる。
その後、とんでもない事件が日本で起きるのです。
1973年、韓国情報機関KCIA(韓国中央情報部)に拉致され、殺されかけるのです。
しかも東京滞在中に、ホテルグランドパレスで拉致されるのです。

日本国内でも騒がれたし、米国が動いたことで、幸いにも殺されずに、なんと韓国内で姿を見せました。
いったい、どうやって日本を出国したんでしょう?

これが「金大中事件」です。
さらに1980年には、後で紹介する「光州事件」の首謀者として死刑判決を出さたりします。

どちらも殺されかけた事件です。
その金大中が、ここ全羅南道の出身なんです。

 

広い建物の中にホールや会議室がたくさんある。

その一番奥に「金大中ホール」がある。
小さなホールの中に金大中関連の資料が展示されていました。

建物裏側(南側)。

建物の一番南側は飲食店のある建物になっている。
ここにあるレストランで、2食も食事をすることになったんです。


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もう1つ、国立5.18民主墓地に行きました。

市街地からかなり離れたところにあります。
その日は生憎と豪雨にみまわれ、墓地はバスの中から眺めるかっこうになりました。

ここは1980年の「光州事件」に関わって亡くなった犠牲者を追悼し、記憶するために設立された施設です。

「光州事件」と言っても知らない人が多いでしょう。

光州事件とは、1980年5月18日から27日にかけて、光州市で民主化を求める活動家、学生、市民が韓国戒厳軍と衝突した事件です。

当時、韓国では、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領による軍事独裁が行われていましたが、1979年10月に側近のKCIA部長金載圭によって射殺されました。
朴が死んで、「ソウルの春」とも呼ばれる民主化ムードになりました。

しかし1979年12月、保安司令官全斗煥陸軍少将(後の大統領)が軍の実権を掌握するクーデターが起こる。
それに反対して、全国各地で反軍部民主化要求のデモが続きます。
全斗煥率いる軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告して、野党指導者の金泳三や金大中らを逮捕・軟禁します。

5月18日、陸軍空挺部隊が光州市で全南大学を封鎖し、これに抗議した学生と衝突。
翌19日には市民によるデモに発展し、市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築き、角材や鉄パイプ、火炎瓶などで軍に対します。
21日、空挺部隊が市民に一斉射撃する。
そこで市民は、郷土予備軍の武器庫を奪取して武装してこれに対抗しました。
戒厳軍は一時市外に後退して、光州市を封鎖(道路・通信を遮断)・包囲した。

こういう事件があったのにもかかわらず、マスコミは軍部に統制され、何も報道しなかった。
そして軍部は、事件は金大中が扇動したものという風説を流しました。
しかし海外メディア特派員によって諸外国で事件の経過が報道されていました。

光州市では、市民による自治が行われ、地元有力者などで構成された市民収拾対策委員会が戒厳軍と交渉しましたが、妥結に至らない。
結局、自主武装解除を行うことになるのですが、闘争派が全羅南道庁を占拠します。
そしてついに、27日、鎮圧命令が下り、市民軍の多くが射殺され、事件は終了しました。

この事件により、人口75万の光州市に投入された総兵力数は2万人、死傷者は5千人ともいわれています。

その後、1995年に韓国国会で「5.18民主化運動等に関する特別法」と「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」が可決され、光州事件等の公訴時効が停止されます。
そして1997年4月に、大法院は全斗煥元大統領と盧泰愚前大統領に実刑判決を出します。

そしてかつての光州事件で亡くなった犠牲者を追悼し、記憶するために国立の墓地が設立されたのです。

墓地への入口あたり。

手を合わせるような「5.18民主抗戦追慕塔」。

「遺影奉安所」には、事件に関わり亡くなった人々の遺影が壁面に沿って掲げられているそうです。

「5.18追慕館」に入りました。

ビデオルームで日本語のビデオを観てから、展示室へ向かいました。

犠牲者の遺品や映像、写真等の資料が展示されています。

当時の写真や遺品の数々。

犠牲者にかぶせられて、血痕が染み付いた韓国国旗。

韓国にはこういう時代もあったということを忘れてはいけないですね。


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韓国からの通信――1972.11~1974.6 (岩波新書)

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1974/08/20
  • メディア: 新書

 

 


韓国からの通信〈続(1974.7-1975.6)〉 (1975年) (岩波新書)

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1975
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韓国からの通信〈第3 1975.7-1977.8〉 (1977年) (岩波新書)

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コメント 2

ちょんまげ侍金四郎

本当に韓国が独裁国家だったなんて、いまでは信じられないですよね。。。
by ちょんまげ侍金四郎 (2013-08-08 12:59) 

とんちゃん

> ちょんまげ侍金四郎さん
まさに軍事独裁国家だったんですよね。
『韓国からの通信』なんかを読んで、驚いていましたもん。
by とんちゃん (2013-08-09 05:24) 

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