七草粥は旧暦1月7日にいただくものではないのか? [食文化]
正月7日には、一年の無病息災を願って「七草がゆ」をいただくという風習があります。
昨日、七草粥をいただいた方々も多いでしょう。
「せり、なづな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」という言い回しで表現される春の七草。
その七草を入れたおかゆを1月7日にいただく、という風習ですが・・・
・いつから行われている風習なのか
・七草はどんな植物なのか
・1月7日はいつのことか
改めて考えてみたいと思います。
◆七草の歴史
これについてはこの記事が正確。
⇒みんなの知識 ちょっと便利帳「春の七草・春七種」
:http://www.benricho.org/koyomi/nanakusa.html
⇒草と木と花の博物誌「春菜摘みと春の七草」
:http://www5e.biglobe.ne.jp/~lycoris/haruna-tumi.html
万葉の時代から「春の菜摘」の風習あり、これは特定の日の行事ではなかった。
百人一首にも「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」(光孝天皇)という歌があります。
それが平安時代に中国文化の影響で、人日の節句(1月7日)に「七種菜羹」を食べる風習になる。
それは7種の若菜の羹(あつもの)。あつものとは汁物のことで、7種の若菜の汁物でした。
ただし7種の若菜は特定されていなかった。
これとは別に「七種粥」があって、こちらは米・小豆・大角豆・黍・粟などの7種類の穀類の粥だった。
鎌倉時代以降に、これら2つが融合され、さらに7種の菜が特定されて、現在の七草粥に至っているそうです。
◆七草とは
これについても先の記事を参考にします。
「せり、なづな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七草」という歌になっている七草。
wikipediaによると、室町時代の初期、『源氏物語』の注釈書である四辻善成著『河海抄(かかいしょう)』にこの歌がある、とのこと。
しかし同書にあるのは、「七種 薺(なずな) 繁縷(はこべら) 芹(せり) 菁(すずな) 御形(おぎょう) 酒々代(すずしろ) 仏座(ほとけのざ)」で、順番が違ってます。
室町時代1384年頃に成立した、連歌師・梵灯(ぼんとう)の『梵灯庵袖下集』という連歌の語彙注釈集には、こうあります。
「せりなづな ごぎやうはこべら 仏のざ すずなすずしろ 是は七種」。
今の歌と同じです。
ただしこの頃には、まだ七草の種類は固定してはいませんでした。
それが先の歌のように固定化するのは江戸時代のようです。
さて、先の歌に詠まれたものが「七草」だとして、それらの古名が現在のどの草のことか。
実は必ずしも明確ではないんです。
せり(芹)、なずな(薺)、はこべら(繁縷)の3種は明確で、セリ、ナズナ(ぺんぺん草)、コハコベのこと。
しかし残りの4種、ごぎょう、ほとけのざ、すずな、すずしろは、意見が分かれているんです。
ごぎょう(御形)はハハコグサ(母子草)、ほとけのざ(仏の座)はコオニタビラコ(小鬼田平子)とする説が有力。
一般には、すずな(菘)はカブ(蕪)、すずしろ(蘿蔔)はダイコン(大根)とされますが、異説があります。
カブとダイコンは、奈良・平安時代に中国から渡来したものなんです。
それが春の若菜摘みに起源する七草のなかに入るのは不自然だ、という指摘があります。
『食べられる野草』の著者・辺見金三郎氏は、「すずな」はノビル(野蒜)、「すずしろ」はヨメナ(嫁菜)としています。
要するに昔から日本にある野草が春の七草だということです。
室町時代にもそうだったのかも。
江戸時代にはどうだったんでしょうか?
◆1月7日
人日(じんじつ)の節句である1月7日に食べられている七草粥。
しかしこの時期に、上記のような野草たちは生えているでしょうか?
九州や沖縄では生えているかもしれませんが、関東では生えていません。
まだ生えていないから、温かいハウス内で育てられた七草がスーパーで販売されているんです。
それって、ちょっと変じゃない?
この風習は本来は旧暦の1月7日に行われたものです。
旧暦1月7日は、新暦では年によって違いますが、2月の初旬から中旬くらいです。
ちなみに今年の旧暦1月7日は、2月3日です。
あと1か月ほど先に七草粥をいただくのが本来の風習である、ということです。
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